tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『始まりの木』夏川草介


藤崎千佳は、東京にある国立東々大学の学生である。所属は文学部で、専攻は民俗学。指導教官である古屋神寺郎は、足が悪いことをものともせず日本国中にフィールドワークへ出かける、偏屈で優秀な民俗学者だ。古屋は北から南へ練り歩くフィールドワークを通して、“現代日本人の失ったもの”を藤崎に問いかけてゆく。学問と旅をめぐる、不思議な冒険が、始まる。
“藤崎、旅の準備をしたまえ”

神様のカルテ」シリーズの夏川草介さん、今回は民俗学がテーマの作品です。
民俗学とはまた渋いところを突いてきたな……という感じですが、実際に民俗学を学べる大学は多くはありませんし、ほとんどの人にとって馴染みがあるとは言い難い学問分野でしょう。
けれども本作を読めば、古屋神寺郎と藤崎千佳という師弟コンビの旅を通じて、民俗学を少しかじった気分になれます。


古屋神寺郎という民俗学者は、その横暴な言動で反感を買いがちな人です。
このご時世、パワハラと言われかねないのではないかとハラハラしてしまうくらいに。
院生の千佳もそんな古屋に振り回されているのですが、めげずに皮肉を言い返すようになったり細かいことは気にしなくなったりと、ある意味とても柔軟で強い人。
言われたことをその都度くよくよ気にするタイプだったらとても古屋の助手的ポジションは務まらないでしょうから、千佳は民俗学を学ぶ学生としては未熟でも、いい弟子だと言えます。
実際、彼女は古屋のいいところもしっかり認め、師として慕っていて、偏屈者の古屋と大らかな千佳はいいコンビだなと感じました。
古屋のよいところは、学者でありながら机にかじりついて論文や専門書と格闘しているのではなく (そういう時ももちろんあるのでしょうが)、自分の足で実際に現地に出かけて、自分の目で見ることを大事にしているところです。
いつも突然「旅に出る」と言いだすので同行する千佳は大変ですが、民俗学というのは人々の日常生活の歴史や文化を研究するものですから、実際にいろんな場所へ出かけて行って確認することが大事なのは道理でしょう。
古屋のその学問に対する真摯な姿勢と矜持には、胸を打たれるものがありました。


そして、千佳が魅了される古屋の「講義」がまた深くて心に沁みるのです。
古屋の講義は、柳田国男の『遠野物語』について、日本人の信仰のあり方や自然との付き合い方についてなど、さまざまです。
そしてそのどれもが考えさせられる内容であり、説得力にも満ちています。
考えてみれば、日本ほど「いろんな神様がいる」国はほかにないのではないでしょうか。
特定の宗教に信仰を持たない人であっても、受験の前には学問の神様をお参りし、家族の誰かが病気になれば健康長寿や無病息災の神様に願掛けに行き、パートナーが欲しいと思えば縁結びの神様にお祈りに行く、などなどは誰もがやっていることでしょう。
他にも商売繁盛や交通安全、勝負事の神様なんてのもいて、そうした複数の神様たちが対立することなく共存しているのは、日本ならではの信仰文化です。
さらには、年輪を重ねた立派な大木をご神木などと神に見立ててお祀りしていたりさえします。
古屋と千佳も日本各地のそうしたご神木を巡り、そこで思索を深めるのですが、そうしたふたりの姿勢に胸を打たれました。
日本人がそのような自然に対する畏敬の念を忘れつつあるという古屋の懸念と警告はもっともであり、実際に再開発による自然破壊のニュースが世間を騒がせています。
日本人が昔から大切に守ってきたものを蔑ろにし、日本人らしい心のあり方も失って、この国は一体どうなってしまうのか。
古屋の、ひいては作者の、深い嘆きが聞こえてくるようでした。


学問の世界を描いていますが堅苦しくなく、むしろ非常にとっつきやすく、日本人として日本文化の中で育ってきた人には共感できるところの多い物語です。
超自然的な不思議なできごとも、作品の世界観にはぴったりでした。
神様のカルテ」シリーズの登場人物がカメオ出演しているのもファンにとってはうれしい演出で、夏川さんが紡ぐ新たな物語世界の誕生と続編への期待感にワクワクします。
☆4つ。