tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『喜べ、幸いなる魂よ』佐藤亜紀


【第74回読売文学賞(小説賞)受賞作】18世紀ベルギー、フランドル地方の小都市シント・ヨリス。ヤネケとヤンは亜麻を扱う商家で一緒に育てられた。ヤネケはヤンの子を産み落とすと、生涯単身を選んだ半聖半俗の女たちが住まう「ベギン会」に移り住む。彼女は数学、経済学、生物学など独自の研究に取り組み、ヤンの名で著作を発表し始める。ヤンはヤネケと家庭を築くことを願い続けるが、自立して暮らす彼女には手が届かない。やがてこの小都市にもフランス革命の余波が及ぼうとしていた――。女性であることの不自由をものともせず生きるヤネケと、変わりゆく時代を懸命に泳ぎ渡ろうとするヤン、ふたりの大きな愛の物語。

佐藤亜紀さんの作品を読むのは『スウィングしなけりゃ意味がない』に続き2作目。
まだ2作目ではあるのですが、この佐藤さんにしか書けないであろう独自性の高い作品世界はくせになりますね。
今回も最初こそ馴染みのない時代・国の話にとっつきにくさを感じたものの、登場人物たちの個性と時代背景の面白さにすっかり魅了されました。


舞台は18世紀のベルギーという、私にとっては全く縁もゆかりも、ついでに興味もない時代と場所です。
地図を見ないとベルギーのフランドル地方というのがどこなのかわからないし、18世紀のヨーロッパで何が起こり人々がどんな生活をしていたかもさっぱりわからない。
世界の地理にも歴史にも疎い私でも本作を楽しめたのは、まるでその時代その場所を実際に見てきたかのような自然でリアリティある描写のおかげです。
特に時代背景も何も説明がないまま物語が進んでいきますが、説明的な文章がない分物語に集中でき、気づけば作品世界の風景が頭の中で自然に描き出されている。
おそらく作者は相当多くの資料や文献を徹底的に読み込んでおられるのだろうということは想像できますが、それだけではそんな文章が書けるとは思えません。
時代が違おうが国が違おうが関係ない、物語は物語だと言わんばかりの圧倒的な文章力と描写力に圧倒されます。
あまりに描写が自然で日本人が書いているようには思えないのですが、かといって翻訳小説っぽくもないのです。
そこが、佐藤亜紀さんのオリジナリティなのだと思います。
18世紀のベルギーに対する知識がほぼ皆無だった私でも、本作を読み終わるころには当時のフランドル地方では亜麻産業が発展していて商人たちが富を築いていたこと、産業革命的な機械化の流れが次第に始まっていたこと、人々の信仰と価値観、フランス革命の影響などが自然に理解できていました。


そして、物語としては何といってもヤンとヤネケという男女の圧倒的な魅力に引きつけられます。
18世紀という時代を考えれば、当然のことながら現代より性別による役割固定や男尊女卑の価値観が強かったはずだ、と想像できますが、ヤンとヤネケの関係性にはそういった古さがあまり感じられず、むしろ現代的な要素さえ感じました。
同じ家できょうだいのように育ったヤンとヤネケが年頃になって性に目覚め、やがてヤネケはヤンの子を妊娠してひっそりと出産します。
しかし面白いのは、ヤネケの興味はヤンとの恋愛や結婚や育児にはなく、学問にあるということ。
ヤネケは驚異的に頭のいい女性で、子どもを産んだ後はヤンと結婚するでもなく「ベギン会」という修道院のような組織に入って数学や天文学や経済学などに関する論文を書いて生計を立てるのです。
そもそもヤンと男女関係になったのも、思春期の少女らしい性への興味もあったでしょうが、ヤネケに恋愛感情を抱いたヤンとは違って、生殖という生物学的な側面への好奇心からだというのがなんとも面白いです。
もちろん18世紀のことなので女性が学問を修めることは良しとはされておらず、ヤネケの論文もヤンの名前で本として出版されるのですが、そういう女性に対する差別的な扱いも特に気にする風ではなく、自分が好きなことができていればそれでいいというような飄々としたヤネケの姿勢が痛快でした。
一方のヤンはヤネケと結婚して一緒に子どもを育てたいと強く願いながらヤネケにはまったく相手にされない、という一見なんとも哀れな男ですが、それでもヤネケではない女性との結婚生活もそれなりに幸せそうで、実直な人柄が幸いして商売も好調で、とこちらも悪くはない感じ。
恋人でも夫婦でも友達でもない、だからといって愛情が通い合っていないわけでもない、ちょっと不思議なヤンとヤネケの関係がなんだかうらやましくなります。
そして、痛快といえば「ベギン会」自体もなかなか痛快でした。
男性とのかかわりを絶って、自立して生きていく女性たちが集まる場所であり、現代でいうところのシェルターのような役割も持った組織です。
「ベギン会」についてヤネケが「男がいないって体にいいんだよ」と言うのには笑ってしまいましたが、ベギン会以外の女性たちが早死にしていく展開が続いてどんどんヤネケの言葉の説得力が増していくのは複雑な気分でした。
実際、医療が現代ほど発展していない当時は、妊娠出産を担う女性にとっては厳しい時代だったのでしょう。
それでも女性たちも男性たちもみなそれぞれの幸せを見出してたくましく生きている。
なんて希望に満ちた物語なのだろう、と感嘆しました。


終盤には戦争の足音が迫ってくるなど、決して幸せなだけの物語ではありませんが、それでも悲惨さはあまりなく気持ちよく楽しい読後感が得られました。
遠く離れた時代、遠く離れた場所の物語がこんなに楽しい、というのは幸せなことだと思います。
佐藤亜紀さんが紡ぐ物語をもっと読みたくなりました。
☆4つ。




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