tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『犬がいた季節』伊吹有喜


1988年夏の終わりのある日、高校に迷い込んだ一匹の白い子犬。「コーシロー」と名付けられ、以来、生徒とともに学校生活を送ってゆく。
初年度に卒業していった、ある優しい少女の面影をずっと胸に秘めながら…。
昭和から平成、そして令和へと続く時代を背景に、コーシローが見つめ続けた18歳の逡巡や決意を、瑞々しく描く。
山本周五郎賞候補、2021年本屋大賞第3位に輝いた青春小説の傑作。

高校を舞台にした青春小説ということで、すっかり高校時代が遠くなってしまった私には共感しづらいかなと思いつつ読み始めたのですが、むしろ私の世代の心にこそ刺さる小説でした。
具体的に言うと、平成初期から中盤くらいに高校生活を送った世代。
当時の世相や自分にも覚えのある感情に懐かしさがこみあげてきて、ずっと涙腺が緩みっぱなしでした。


舞台は四日市市の伝統ある公立高校、八陵高校、通称ハチコー。
作者である伊吹有喜さんの母校、三重県四日市高校がモデルとなっているとのことです。
本作は高校で飼われることになった犬の視点で歴代の高校生たちの青春物語が紡がれるのですが、高校で犬を飼うなんてそんな柔軟な学校もあるのかと思ったので、実在の高校で実際に犬が飼われていたという実話を元にしているのは少し驚きでした。
捨てられた犬を保護した生徒たちも、その犬の引き取り手が見つからないとなったら学校内で飼育することを許可する校長先生も、なんて優しくて素敵な人たちなんだろう、きっとこの学校はいい学校だと、もうそれだけで心を奪われてしまいました。


第1話は昭和63年度、昭和から平成へと代替わりした年にハチコーに子犬がやってきて、その子犬の名前コーシローのもとになった美術部部長の光司郎と、美術部員の優花の切ない恋物語
第2話は平成3年度、相性が悪かったはずが、ふたりともF1が大好きだとわかって急速に接近し、一緒に鈴鹿サーキットアイルトン・セナを見に行くことになる堀田と相羽という男子2人の友情物語。
第3話は平成6年度、阪神・淡路大震災で被災した祖母を自宅に引き取り同居することになった奈津子の進路選択の物語。
第4話は平成9年度、東京の大学に進学して家を出るために援助交際でお金を稼ぐ詩乃と、仲間とバンドを組んで音楽活動をしている鷲尾の物語。
第5話は平成11年度、子どもの頃に近所の優しいパン屋のお姉さんだった優花に初恋をした大輔と、英語科教員として母校ハチコーに戻ってきた優花の物語。
その年ごとのできごとや流行を盛り込みながら描かれる出会いと別れの物語に、Mr.Childrenスピッツ安室奈美恵GLAYなどの時代を彩った名曲が盛り込まれていて、これはずるいと涙ぐみながら思わずにはいられません。
だって全部知ってる曲だから、いや知ってるどころか全部歌えるんだから。


そんな「ある世代」(就職氷河期世代、ということになるのでしょうか) を完全に狙い撃ちに来ているあざとさが感じられるのは否めませんが、青春小説としてもちゃんと質が高くて面白いのが本作の魅力です。
描かれるいくつかの恋模様は、どれも十分に甘くて切なくて、等身大の高校生の恋愛で好感が持てます。
男同士の友情はちょっとバカっぽくて、でも最高に楽しそうで、若さゆえの体力任せの冒険譚に笑みがこぼれてきます。
進路選択でいきなり人生の岐路に立たされる戸惑いも、親への反発と感謝が入り交じる複雑な感情も、かつて高校生だった大人にとって経験あるものばかり。
こみあげてくる懐かしさで何度も胸がいっぱいになりました。
高校生は大人と子どものちょうど境目の時期です。
恋は叶わない、それどころか相手に気持ちを伝えることすらままならない。
いちばん距離が近いはずの家族ですら価値観や考え方が違っていて、時に理解しあえずぶつかってしまう。
進路は思い通りにはならない。
――要するに、人生は全然うまくいかない。
そういうことがだんだん見えてきて、厳しい現実と向かい合わざるを得なくなって、それでもうまくいかないもどかしさとどうにか折り合いをつけて生きていく方法を身につけていく、それが高校時代なんだな。
そんなことを再確認した作品でした。


最終話は令和元年、創立100周年を迎えたハチコーの記念行事に卒業生たちが集まって、各話の登場人物たちのその後を知ることができるというのも心憎い演出でした。
人生の後半戦に入ってから突然新しい扉が開くラストシーンも希望に満ちています。
激動の平成時代前半の世相、当時流れていた懐かしい音楽、歴代の生徒たちにそっと寄り添う愛らしい白い犬。
そのすべてに見事に心を撃ち抜かれてしまいました。
☆5つ。