tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『本を守ろうとする猫の話』夏川草介


「お前は、ただの物知りになりたいのか?」
夏木林太郎は、一介の高校生である。幼い頃に両親が離婚し、さらには母が若くして他界したため、小学校に上がる頃には祖父の家に引き取られた。以後はずっと祖父との二人暮らしだ。祖父は町の片隅で「夏木書店」という小さな古書店を営んでいる。その祖父が突然亡くなった。面識のなかった叔母に引き取られることになり本の整理をしていた林太郎は、書棚の奥で人間の言葉を話すトラネコと出会う。トラネコは、本を守るために林太郎の力を借りたいのだという。
お金の話はやめて、今日読んだ本の話をしよう――。

現役の医師であり、『神様のカルテ』が大ベストセラーになった作家・夏川草介さんによる初の非医療小説です。
人語を話す猫が出てくるとのことで、どうやらファンタジーのようだけど、さてジャンルが変わるとどうなるのか……?と興味津々で読み始めましたが、医療だろうがファンタジーだろうが、夏川さんの書く作品はどこまで行ってもやっぱり夏川ワールドでした。


夏川ワールドの要素その1は、本への、文学への愛があふれていること。
神様のカルテ」シリーズの主人公・栗原一止は文学、特に夏目漱石をこよなく愛する医師で、常に漱石の本を持ち歩いています。
本作の主人公である夏木林太郎は、まだ高校生ながら古書店を営む祖父の影響でかなりの読書家、しかも古今東西の名作文学を読み込んでいるという生粋の本好きです。
こうした主人公像に、作者自身の姿が重なります。
本作にはたくさんの実在の書名や作家名が登場する上、それらの作品からの引用やオマージュもたっぷり盛り込まれています。
これはもちろん作者自身の文学への深い愛と造詣があってこそ書ける趣向です。
主に大衆文学を好んで読み、純文学や古典文学には疎い私には、作中の数々の引用やオマージュの元ネタを全部理解できたとは到底思えません。


そして夏川ワールドの要素その2は、ちょっと頼りない男性主人公を支える、しっかり者のヒロインが登場すること。
一止の妻であるハルさんは本当に魅力的な女性で、女の私から見ても理想的な奥さんです。
それは決して伝統的価値観に基づく良妻賢母という意味ではなく、いえ、良き妻であり良き母であることには違いないのですが、同時に世界を飛び回る山岳カメラマンとして自立した女性でもあるという、非常に現代的なヒロインなのです。
本作で引きこもりの林太郎を導くのは、同じクラスの学級委員長である柚木沙夜。
勝気な少女ですが学校を無断欠席する林太郎を気にかける優しさがあり、林太郎が薦めた本を「難しい」と言いながらも読んでいく素直さもあります。
気の弱いところのある林太郎とは好対照ですが、だからこそ林太郎に欠ける部分を補いはっきりとものを言える沙夜は、理想のパートナーと言えます。


ですが「夏川ワールド」は今回、私のようなただ娯楽としての読書を楽しんでいる本好きにとっては少し耳の痛い部分もある物語でした。
たとえば、林太郎が沙夜に「読みやすい本には君が知っていることしか書かれていない」と言う場面。
「読みやすい」は本の評価としてよくある言葉です。
私もこのブログで時々使っています。
けれども、「読みやすい」本ばかり読んでいると、新たな知識や考え方は得られないのではないかと、林太郎は指摘しているのです。
いやはや、まったくその通りで、高校生の林太郎に対して、お見それしました、弟子にしてくださいと頭を下げたくなってしまいました。
そんな林太郎だからこそ、作中に登場する「本を愛しているはずが、どこか歪んでいる人たち」へ投げかける言葉にも説得力があります。
読んだ本の内容ではなく冊数を重要視する男、読書を効率化しようと短いあらすじを作る研究者、本は売れることがすべてだとうそぶく出版社の社長――。
こうした人々を読書家ではあっても引きこもりの高校生でしかない林太郎が論破していく様子は痛快ですし、同時に現代における本をめぐる状況を憂える作者の嘆きと、それでも本は素晴らしいものだという祈りにも似た叫びが聞こえてくるようで、胸を打たれました。


社会人になると忙しい日々の中、なかなか重厚な文学作品を読もうという気が起こらず、ついつい読みやすいベストセラー本にばかり手を伸ばしていましたが、やはりたまには難しい本にも挑戦してみなければ、とつくづく思いました。
読書の楽しみというのは、ジャンルにとらわれない幅広い豊かな読書にこそあるものだよと、作者に諭された気分です。
そうして私も「本を守ろうとする」人間のひとりになれたら、それはなんと幸せなことでしょうか。
☆4つ。