tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『クジラアタマの王様』伊坂幸太郎


記憶の片隅に残る、しかし、覚えていない「夢」。自分は何かと戦っている? ――製菓会社の広報部署で働く岸は、商品への異物混入問い合わせを先輩から引き継いだことを皮切りに様々なトラブルに見舞われる。悪意、非難、罵倒。感情をぶつけられ、疲れ果てる岸だったが、とある議員の登場で状況が変わる。そして、そこには思いもよらぬ「繋がり」があり……。伊坂マジック、鮮やかなる新境地。

まったく何の予備知識もなく読み始めたら、いきなりセリフのないマンガから始まったので驚きました。
マンガと小説、ふたつの表現方法を合体させた、新たな形式の作品だったのですね。
最初は「ん?」と少し戸惑いましたが、マンガと小説の2つのパートで紡がれていく物語、なかなか新鮮で興味深かったです。


マンガのパートで描かれるのは、どこかの異世界? (少なくとも現代日本でないことは確か) で3人の戦士が巨大な動物あるいは怪物のような敵と戦う物語です。
そして、小説のパートを読み進めていくと、どうやらマンガパートは小説パートの主人公である岸というサラリーマンが見ている夢の世界のようだぞ、ということが徐々にわかっていきます。
しかもこの夢の世界、どうやら現実世界とリンクしているらしい。
夢の世界での戦いに勝つと、現実の世界での問題が解決したり、その逆で夢の世界での戦いに負けると、現実の世界で大問題が起こったりするのです。
岸はあまり夢のことを覚えておらず、従って現実とのつながりも意識していないのですが、池野内という名の都議会議員が現れて夢のことを岸に話したことをきっかけに夢について意識するようになっていきます。
さらにもうひとり、小沢ヒジリという人気ダンスグループのメンバーも同じ夢を見ており、岸・池野内・小沢の3人は夢の中で共に戦う仲間だということが判明します。
夢と現実との行き来が、マンガと小説という表現方法の違いで表現され、最初は意味がよくわからないマンガパートの内容が小説パートを読むことによって少しずつ理解できるようになっていくのが面白かったです。
岸が夢のことをおぼろげにしか覚えておらず、あまり内容も理解していないのと同じ感覚を読者も味わえるように工夫されています。
夢の世界は現実にはいない生き物がいる異世界ですが、どういう世界なのかはあまり説明がなされず、それゆえにあくまでも現実世界に軸足を置いたライトなファンタジーという印象を受けました。


ファンタジーといいつつ、現実世界のパートも、伊坂さんには珍しいサラリーマン小説の側面があって新鮮な印象です。
岸はお菓子メーカーの広報部門で働いていて、お客様対応などを担当しています。
異動の話だとか、上司との関係だとか、勝手なことを言ってくる上層部だとか、理不尽な顧客クレームだとか、企業で働く人の「あるあるエピソード」が満載で、同じ企業勤めの人間としては共感できる部分がたくさんありました。
伊坂さんの作品は殺し屋の話のようにちょっと浮世離れしている (?) 登場人物も多いのですが、今回はなんだかとても身近な話に感じました。
とはいえ、岸はサラリーマンとしては普通の人でありながら、議員や人気芸能人と知り合ったり、とんでもない事件に巻き込まれたりしていて、そういう点では普通ではないかもしれません。
ですがその事件についても、背景となる出来事は非常にリアリティがありました。
というのも、新型インフルエンザウイルスが海外から日本に入ってきて感染が広がっていくという出来事が描かれているのです。
まさにこの2年半の間に新型コロナウイルスに関して私たちが経験してきたようなことがそのまま作中で起こっているという感じで、物語内の「現実世界」と、私たちが生きる現実世界とがリンクしているかのような感覚がありました。
本作は2019年、コロナ禍が始まる前に刊行された作品なので、コロナ禍を参考に書かれたわけではありません。
それでも、まるで未来へ行って見てきたかのような描写の数々に、パンデミックは決して想定外の出来事などではなく十分予見できたことだったのだと思わずにはいられませんでした。
偶然とはいえ、非常にタイムリーな題材を扱う作品になっていて、これも小説が持つ力のひとつなのでしょう。


目新しい表現方法を取り入れた作品は、ファンタジーでもあり、サラリーマン小説でもあり、冒険小説でもあって、読み応えたっぷりでした。
マンガから始まる物語なのでカジュアルなエンタテインメントなのかと思いきや、寓話的な側面もあって、そこは伊坂さんらしいところです。
とはいえ小難しさはなく、最後には夢と現実とが反転するような感覚もあって、あれこれ想像が膨らむ楽しい物語でした。
☆4つ。