tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『熱源』川越宗一


樺太(サハリン)で生まれたアイヌ、ヤヨマネクフ。開拓使たちに故郷を奪われ、集団移住を強いられたのち、天然痘コレラの流行で妻や多くの友人たちを亡くした彼は、やがて山辺安之助と名前を変え、ふたたび樺太に戻ることを志す。
一方、ブロニスワフ・ピウスツキは、リトアニアに生まれた。ロシアの強烈な同化政策により母語であるポーランド語を話すことも許されなかった彼は、皇帝の暗殺計画に巻き込まれ、苦役囚として樺太に送られる。
日本人にされそうになったアイヌと、ロシア人にされそうになったポーランド人。
文明を押し付けられ、それによってアイデンティティを揺るがされた経験を持つ二人が、樺太で出会い、自らが守り継ぎたいものの正体に辿り着く。

2020年に直木賞を受賞し、本屋大賞にもノミネートされた大作です。
史実に基づいたストーリーで実在の人物が多数登場する、非常に骨太な歴史小説であり、冒険小説であり、戦争小説でもある、スケールの大きな作品でした。


明治初期から太平洋戦争終戦までのおよそ80年ほどにわたる激動の時代。
本作は、その歴史の中で運命を翻弄されたあるアイヌポーランド人の波乱の人生を描いています。
和人による同化政策によって故郷の樺太 (サハリン) を追われ、北海道へ渡り、紆余曲折を経て再び樺太へ戻ることになるアイヌのヤヨマネクフ。
そして、リトアニアに生まれてロシアによる同化政策母語であるポーランド語を奪われ、政治犯となって樺太へ流刑となったブロニスワフ・ピウスツキ。
まったく別の国で生まれ育った異民族である彼らですが、同化政策に翻弄され、理不尽を押し付けられ、自己のアイデンティティに苦悩するという点では、奇妙なくらい共通しています。
それは当時、自国の領土を広げ、他民族を同化させて自国民として組み込むという流れが世界全体で起こっていたのだということをよく表しているのでしょう。
私は恥ずかしながら歴史に疎い人間で、樺太における領有の歴史がこんなにも複雑だったとは知りませんでしたし、そこに住んでいたアイヌが日本人とロシア人との間で翻弄されたということも知りませんでした。
世界史に関してはもっと疎いので、ピウスツキという名を見ても何もピンとくるものがありませんでした。
そんな歴史音痴でも、ヤヨマネクフとブロニスワフという2人の人物を中心に描かれ、大隈重信二葉亭四迷石川啄木金田一京助白瀬矗といった歴史上の有名人も続々と登場する物語は頭に入りやすく、この時代の日本、ロシア (ソ連)、ヨーロッパにおける基本的な歴史の流れが理解できました。
いやむしろ、私のような歴史音痴にこそ読んでほしいという願いをこめて、史実に基づく小説という形式をとって書かれたのではないかと思います。


歴史を学ぶことができる側面に加え、強大な国力や軍事力を背景にした文化的侵略を受けた人々がどのように自らのアイデンティティを確立し、生きていくかという重い問題について考えずにはいられない作品でもありました。
普段はなかなか意識することはありませんが、母語を日常生活の中で自由に使い、好きな外国語を自由に学ぶこともできるという状況は、実は非常に恵まれていることです。
歴史を振り返ってみれば、ヤヨマネクフやブロニスワフのように母語を使うことが許されない、あるいは母語ではない言語の習得を強制される状況に追い込まれた人々はたくさんいましたし、そこまではいかなくても母国が経済的に脆弱で、生計を立てるために外国語を身に付けざるを得ない人も大勢います。
言うまでもなく、言語は文化と密接に結びついており、言語を奪われることは、文化を奪われることに他なりません。
自分たちは他民族より劣り、滅びゆく運命なのかと苦しみ、そのような考え方に抗おうとしたヤヨマネクフやブロニスワフの気持ちはよくわかります。
一方で日本人は、アイヌはもちろん、本作ではほとんど言及がありませんが朝鮮人に対しても、同化政策を取って日本語と日本文化を押し付けてきた側です。
けれども19世紀から20世紀にかけての欧米では白人至上主義がはびこっており、その中では日本人ももちろん蔑まれ下等とされる対象でした。
実際に、不平等な条約を押し付けられてきたという歴史もありました。
そのような日本の状況を変えたいという大隈重信の願いが作中でも描かれますが、その切実な思いは理解はできるものの、自民族こそが優れているのだという思い上がりが太平洋戦争の敗戦へとつながったのではないかという苦い思いが湧き上がります。
「民族に優劣などない」という考え方が今は主流になっていますが、そこに至るまでに日本だけではなく世界中で多大な犠牲を出さなければならなかったことに胸が痛むとともに、苦難の時代の中でも生きる希望と誇りと熱を失わなかったヤヨマネクフやブロニスワフに尊敬の念を抱きました。


こうした史実に基づく小説を読んだ後は、Wikipediaなどを検索してみるのが楽しいですね。
ヤヨマネクフ (山辺安之助) もブロニスワフも、しっかり独立した項目があり、作中には言及がなかった情報も知ることができます。
アイヌの女性と結婚したブロニスワフの子孫は今も日本で暮らしていると知ることができ、なんだか少し救われたような気持ちになりました。
この作品に描かれた彼らの「熱」は今もきっと生き続けている。
何より、アイヌを描いたマンガ作品が大人気になるなど、21世紀になってもアイヌアイヌ文化の記憶は決して失われてはいないと、ヤヨマネクフやブロニスワフに教えてあげたい気持ちです。
☆4つ。