tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』夏川草介


美琴は松本市郊外の梓川病院に勤めて3年目の看護師。風変わりな研修医・桂と、地域医療ならではの患者との関わりを通じて、悩みながらも進む毎日だ。口から物が食べられなくなったら寿命という常識を変えた「胃瘻」の登場、「できることは全部やってほしい」という患者の家族……老人医療とは何か、生きることと死んでいることの差は何か?真摯に向き合う姿に涙必至、現役医師が描く高齢者医療のリアル!

神様のカルテ」シリーズが人気の現役医師・夏川草介さんによる新たな医療小説です。
舞台が信州であるという点は「神様のカルテ」シリーズと共通していて、主人公の年齢やキャリアが違っても同じ世界観を共有しているため、すんなりと物語の中に入っていけました。
実際、一止がちらりと登場しそうな場面もあり、「神様のカルテ」シリーズのファンも楽しめること間違いなしです。


物語の舞台は安曇野を望む地域の小規模病院、梓川病院です。
ここで働いて3年目の若い看護師・月岡美琴が出会ったのは、研修医として梓川病院に赴任してきた桂正太郎という一風変わった青年でした。
彼は花屋の息子でやけに花や植物に詳しいのですが、一方の美琴は「花に興味を持ったのは保育園以来」という花音痴。
そんな対照的なふたりが院内に飾られていた花をきっかけに出会い、仕事でも関わるようになって、次第にほのかな恋心が芽生えていきます。
神様のカルテ」シリーズの一止より若いふたりが主人公ということで、なんとも初々しくてさわやか。
そのさわやかさと、安曇野の自然と花のあでやかさとの相性が抜群で、とてもすがすがしい雰囲気をまとった文章が好印象です。
神様のカルテ」でも信州の自然の美しさは存分に描写されていますが、本作は桂が花に詳しいという設定のため、さらに踏み込んで花ひとつひとつについて詳しく丹念に描かれています。
花々に負けない明るさを持った美琴は、激務でお疲れ気味の研修医の桂をカタクリの花の群生地へ連れ出すなど、細やかな心配りが素晴らしく、まさに桂にとって最高のパートナーだなと微笑ましい気持ちになりました。
一止とその妻・ハルさんが相性ピッタリであるように、桂と美琴も何人たりとも邪魔できない素敵なカップルになるだろうと、すでに近い未来のふたりの姿が思い浮かびます。


そんなさわやかな恋愛小説の一面もありますが、地域に根差した病院である梓川病院という医療の現場は、それほど甘いものではありません。
美琴が勤務しているのは内科ですが、入院患者の8割が80歳を超える高齢者。
認知症脳梗塞の後遺症などで意思疎通もままならない患者も多く、美琴いわく「転倒とせん妄」の病棟が彼女の職場で、桂もそこで研修医として高齢者医療に携わることになります。
高齢者医療では患者の「病気を治す」というのは不可能なことも多く、寝たきりで意思疎通もできない患者が管から必要な栄養を取っているだけ、というような状態になっていることも珍しくありません。
そんな患者に対してどこまでの医療を提供するのが正しいのか、医療リソースが限られる中で「やれることは全部やる」というのは正しいのか――美琴や桂が医療者として直面する問題は、今や医療者ではなくても私たち日本人全員が向き合わなければならない問題になってきています。
口から食べることが難しくなった高齢者に胃瘻を作れば延命することはできますが、時には何もせずそのまま自然に看取るという選択もある。
桂たちはその難しい選択を前に悩み、迷いますが、その苦悩を医療関係者だけに押し付けていてはいけないのです。
なぜならこれは、日本という国がこれからの少子高齢化社会をどう切り抜けていくかという問題に直結するからです。
誰もがいつかは親の看取りに直面する日が来る、その時にどこまでの延命をお願いするのか、さらには自分自身が高齢になった時にはどうしてほしいのか。
本人の意思、家族の意思、そして医療関係者の専門知識に基づく適切な判断。
この3つが重要なのは言うまでもありませんが、これからはそこに社会全体としての医療コストをどう負担し、どのように医療リソースを振り分けていくのが正解かの判断を迫られていくことになるのでしょう。
簡単に答えが出る問題ではありませんが、桂の指導医が桂に言うように「悩むことには意味がある」のだろうと、桂のみならず日本社会を生きる一員としての私自身にも宿題を課されたように感じました。


高齢化社会における医療のあり方という重い社会派テーマを、若い男女のさわやかな成長や恋愛を絡めて描く、硬軟のバランスが取れた医療小説でした。
これも「神様のカルテ」シリーズと並行してシリーズ化していってくれたらうれしいです。
そのうち一止やハルさんと桂や美琴が出会う場面なども読めたらいいなと期待しています。
☆4つ。




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