tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『八月の銀の雪』伊与原新


「お祈りメール」の不採用通知が届いた大学生は、焦りと不安に苛まれていた。
2歳の娘を抱えるシングルマザーは、「すみません」が口癖になった。
不動産会社の契約社員は、自分が何をしたいのか分からなくなっていた……。
辛くても、うまく喋れなくても、
否定されても邪慳にされても、
僕は、耳を澄ませていたい――地球の中心に静かに降り積もる銀色の雪に。深海に響くザトウクジラの歌に。見えない磁場に感応するハトの目に。珪藻の精緻で完璧な美しさに。高度一万メートルを吹き続ける偏西風の永遠に――。
科学の普遍的な知が、傷つき弱った心に光を射しこんでいく。表題作の他「海へ還る日」「アルノー檸檬」「玻璃を拾う」「十万年の西風」の傑作五編。

2021年の本屋大賞6位の作品です。
収録されている5つの短編に物語上のつながりはなく完全に独立していますが、ひとつ共通点があります。
それは科学の知見が物語に活かされていること。
自然科学系の専門書や論文がずらりと並ぶ巻末の参考文献リストは圧巻で、文芸小説には珍しいことでしょう。
作者の経歴を見てみれば、東京大学大学院で地球惑星科学を専攻したとあり、専門書や論文を読み解く力を持った人だからこそ書ける小説だったのだと、大いに納得しました。


表題作「八月の銀の雪」は地球の内部の話。
「海へ還る日」はクジラやイルカの生態の話。
「アルノー檸檬」は伝書バトの能力の話。
「玻璃を拾う」は珪藻の話。
「十万年の西風」は気象観測の話。
それぞれ異なる科学知識を取り上げていますが、どれも物語との親和性が高くて無理やりエピソードを盛り込んだという感じがなく、専門知識に裏打ちされた説得力のある題材となっています。
科学というと難しそうだと感じる人もいるかもしれません。
私も超文系人間で、理系科目は苦手ですが、本作からはまったく難解さは感じませんでした。
硬さやとっつきにくさもなく、非常に読みやすいことにまず安心しました。
どの話でも心が傷ついていたり、弱い立場にあったりする人たちが描かれますが、そうした人たちへの作者のまなざしがとても優しく、その優しい視点から描かれた物語に科学の知識がそっと寄り添う。
科学的知見が人を癒すこともあるのだなと、感心すると同時に感動しました。


個人的に収録作の中でいちばんのお気に入りは表題作である「八月の銀の雪」です。
就職活動がうまくいかない大学生が主人公で、私もかつて就職活動がうまくいかない大学生だったので、その不快で不安でくさくさした気持ちが手に取るようにわかりました。
そんな彼が出会ったのは、よく行くコンビニで働く外国人の女性。
彼女は要領が悪く他の店員と比べても仕事ができない様子なので、主人公は内心で彼女のことを馬鹿にしていました。
けれども、ひょんなことから知ることになった彼女の「正体」にハッとしました。
人をある一面だけで判断してはいけないということを如実に表すエピソードです。
そんなふうに一見「できない人」が実はそうではない側面を持っているということに、主人公は救いを見たのではないでしょうか。
もしかしたら自分にも、どこかの企業が評価してくれる一面があるのではないかと。
本当は誰もがそうで、人間には長所と短所があって当たり前、社会に必要とされない人間などいなくてどこかには自分の能力や個性を活かせる場所があるはずなのですが、就職活動中はなかなかそんなふうにポジティブには考えられないものです。
再び頑張ってみようと前向きになり始めた主人公に対して外国人女性が語る「地球の内核にも雪が降る」という話が、非常にロマンチックで幻想的で、しんと静かな場所で雪が降り積もるイメージが心に残りました。


「十万年の西風」では太平洋戦争中の風船爆弾にまつわる悲劇の話や、原発の話が語られ、その科学のみならず社会問題への鋭い視点にも唸らされました。
登場人物のひとりが「まず責められるべきは、僕ら科学の世界の人間でしょう。原子力にまつわる不都合な事実をよく認識していながら、見て見ぬふりを続けてきた」と語りますが、その言葉が自身も科学者である作者の中から出てきていると考えると非常に重い言葉で、ずしりと胸にのしかかります。
作者の科学者としての思いと矜持、そして弱い立場にある人々への優しさが心に沁みる、あたたかい短編集でした。
☆4つ。