tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『ひと』小野寺史宜


女手ひとつで僕を東京の私大に進ませてくれた母が、急死した。
僕、柏木聖輔は二十歳の秋、たった独りになった。大学は中退を選び、就職先のあてもない。
そんなある日、空腹に負けて吸い寄せられた砂町銀座商店街の惣菜屋で、最後に残った五十円のコロッケを見知らぬお婆さんに譲ったことから、不思議な縁が生まれていく。
本屋大賞から生まれたベストセラー、待望の文庫化。

本作が2019年の本屋大賞にノミネートされるまで、小野寺史宜さんという作家を存じ上げませんでした。
当然、今回文庫化を機に初めて読んだのですが、短めの文をテンポよくどんどん重ねていく若々しい文体でありながら、軽すぎるということは決してない文章で、さすが本屋大賞2位作品!と思える読みやすさでした。
ストーリーもさわやかな青春小説で、とても気持ちよく読むことができました。


高校生の時に父親を交通事故で亡くし、さらに大学2年生で母が急死して、ひとりぼっちになってしまった聖輔。
大学を中退し、わずかな所持金だけを持って歩いていたときに行き当たった商店街の惣菜屋「おかずの田野倉」で、店主からメンチカツを負けてもらった聖輔は、その場でその店でアルバイトをすることを決めます。
アルバイトをしながら調理師免許を取って、父親と同じ料理人を目指そうと決意する聖輔の、その前向きな姿勢にまず感心しました。
優柔不断で決断力に欠ける私だったら、母と死別し大学を辞めてお金もないという状況で、こんなに早く自分の進路を見出すことはできない。
たまたま自分の父親の職業が大学中退という学歴でも目指せるものだったから、というのもあったかもしれませんが、それでも、すごいな聖輔かっこいいぞ、ともうこの序盤の段階で聖輔に好感を持ちました。
その後の物語でも、聖輔は至極真っ当でいいやつ、という印象はどんどん強まっていくばかり。
ちゃんと挨拶ができる、人に対する気遣いができる、謙虚で控えめ、特に抜きんでた才能があったりはしないけれど真面目に働く。
これだけ揃っていたら、ひとりでも十分生きていけますね。
聖輔の境遇を知って、さまざまな形で手助けをしてくれる人たちが何人も現れますが、聖輔が人格に問題のあるような人だったら、いくら不幸な境遇だからといっても手を差し伸べたいという気にはならないでしょう。
人として真っ当であること。
それが人と人とのつながりを呼び、困ったときの助けになるのです。


もちろん、聖輔が関わる人の中には、厄介な人間もいます。
悪人というほどではないけれど、迷惑な人、面倒な人が。
善人ばかりではないというのがとてもリアルです。
でも、善良な人たちとしっかりとした人間関係を築けていれば、そうした厄介な人たちにもうまく対処できるようになります。
普通はそうした人間関係の機微だとかコツといったものは、社会に出て行動範囲や交友関係が広がる中で徐々につかんでいくものなのではないでしょうか。
けれども聖輔は心の準備も何もないままいきなり学生生活を終えることになり、就職活動するでもなくフリーターという道を選ばざるを得ませんでした。
それでも「おかずの田野倉」を拠点に、聖輔は年齢も性別もさまざまな人たちと知り合い、関わり合って、人間関係の広がりの中で成長していきます。
父と同じ料理人を目指すにあたって父の足跡をたどろうと、父が若い頃に勤めていた飲食店を探して訪ねてみるなど、自ら積極的に行動するところも聖輔の強みです。
真っ当な大人たちが聖輔にまっすぐ向き合い、エールを送ることが、自分がそうされたかのようにうれしく感じました。
特に「おかずの田野倉」の店長が、「余裕がない」から彼女はいないという聖輔に対し、「余裕がなくても彼女を作ってもいいのではないか」と言うのにはしびれました。
恋人は贅沢品というような考え方は確かに世の中にありますが、別に誰だって恋愛する権利はある。
そこに自分の境遇は関係ないし、仕事や生活だけじゃなく、恋愛だって大事だよ、という年長者からの助言は、聖輔のような生真面目な若者には必要で、若者に必要な助言がさらっとできる大人ってかっこいいな、と惚れ惚れしました。


「自分探し」をゆっくりする間もなく社会に出ることになった20歳の青年の、さわやかな成長ぶりを堪能しました。
青春小説としても恋愛小説としても、熱すぎず重すぎず、さらりと自然体なところが、今どきの若者らしいのかなと思います。
不幸を強調するでもなく、努力や頑張りを汗臭く描くでもない、嫌味のなさが魅力的な作品でした。
☆4つ。