tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『みかづき』森絵都

みかづき (集英社文庫)

みかづき (集英社文庫)


昭和36年。放課後の用務員室で子供たちに勉強を教えていた大島吾郎は、ある少女の母・千明に見込まれ、学習塾を開くことに。この決断が、何代にもわたる大島家の波瀾万丈の人生の幕開けとなる。二人は結婚し、娘も誕生。戦後のベビーブームや高度経済成長の時流に乗り、急速に塾は成長していくが…。第14回本屋大賞で2位となり、中央公論文芸賞を受賞した心揺さぶる大河小説、ついに文庫化。

本屋大賞で2位となるなど評判のよい作品だったので、読むことはかなり前から決めていましたが、実際に文庫化されて手に取ってみて、思った以上の本の分厚さにびっくりしました。
しかも文字が小さい!
物理的なボリュームだけでなく、内容的にも盛りだくさんで非常に読み応えのある物語でした。


本作は大きく3つのパートに分けることができます。
最初は小学校で用務員をしている大島吾郎のパート。
経済的な理由で大学に行けず教員にはなれなかったものの、勉強の教え方がうまい吾郎は子どもたちから慕われ、やがて保護者のひとりである赤坂千明に見込まれて一緒に学習塾をやらないかという誘いを受けます。
この、吾郎が千明と共に塾を開くまでのエピソードがとても面白くて、一気に物語に引き込まれました。
女性からの誘惑に弱い吾郎の人間性や、千明の教育に対する情熱の強さや激しい性格など、作品全体を引っ張っていく要素がこの序盤のわずか数十ページにしっかり詰め込まれていて、あっという間に物語を加速させていくそのスピード感に圧倒されました。
結婚して夫婦となった吾郎と千明が塾の設立後、その塾を軌道に乗せていくまでの物語も面白いですし、ふたりの関係にだんだん亀裂が入っていく過程にはハラハラさせられました。


そして2つ目のパートが、熾烈を極める業界内競争の中、さらに塾を拡大させていく千明の視点の物語です。
千明は公教育や文部省 (現文科省) に対する激しい反発や敵対心を持ち、それゆえに塾を設立して、学校教育がサポートしきれない子どもたちへの教育に情熱を注ぐ女性ですが、彼女はどちらかというと教育者よりは経営者に近いタイプだと思います。
吾郎は教育者タイプで、千明とは対照的なのですが、それが夫婦関係にとってはあまりよくなかったのかもしれません。
離婚はしないまでも、千明のもとを去り、そのまま行方不明になってしまう吾郎。
さらには3人の娘たちもそれぞれの道を進んで、大島家はバラバラになってしまいます。
ただ、修復不可能なほど仲が悪いかというとそんなこともなく、根っこのところではつながっているというか、お互いによく理解し合っているのが大島家の人たちなのではないかと思います。
理解しているからこそ一緒にいるのが大変、ということもあるんだなと感じました。
家族とは有り難くも厄介なものでもありますね。


最後は吾郎と千明の孫、一郎のパートです。
不景気の中、就職活動がうまくいかずにアルバイト生活をしていた一郎は、あるきっかけから塾に通わせる余裕のない家庭の子どもたちの勉強を無償で見る会を主宰することになります。
身内に教育関係者が多いせいでなんとなく教育に苦手意識を持ってきた一郎が、結局は教育に関わるようになっていく過程は、吾郎と千明のパートとはちょっと毛色が違っていて、そこが面白いと感じました。
学校を補足する教育機関としての塾、そしてさらにその塾に行けない子どもたちのための教育の場。
教育の現場が時代に合わせて変遷していく様子が説得力を持って描かれていました。


3つのパートを通して、日本社会の変化と学校や塾の変化がリンクされて描かれており、戦後から現在までの日本の教育史を時系列で追うことができました。
教育にまつわる政策や教育行政についても作中で詳しく説明されており、特にゆとり教育の真の目的に関する鋭い指摘にはハッと目を見開かされる思いがしました。
私自身、大学で多少なりとも教育について学び、教員免許も取得しましたが、なかなかここまで過去にさかのぼって日本の教育について考える機会は今までなく、その点で本書は非常に勉強になる本でした。
その上で家族を描いた小説としても面白いのだから、なんだか得した気分です。


タイトルの「みかづき」は、吾郎が千明のことを評して「みかづきのように決して満ちることがない」人というところから来ていると思いきや、それだけではなくもう一つの意味が込められています。
そのもう一つの意味こそ、作者がこの作品で描こうとしたテーマなのだと思います。
その意味を知った時、なるほどと感心すると同時に深い感動に襲われました。
これほどまでに教育というテーマを掘り下げてその光と影を丁寧に描いた小説作品は初めて読みましたし、塾という学校外の教育機関から描くという視点も新鮮でした。
教育は国の根幹を支えるもの。
教育関係者でなくても、子どもがいなくても、すべての人に関係があるのが教育というものだからこそ、どんな人にでもおすすめしたい作品です。
☆5つ。