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tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『桜ほうさら』宮部みゆき


人生の切なさ、ほろ苦さ、人々の温かさが心に沁みる、宮部時代小説の真骨頂!
父の無念を晴らしたい――そんな思いを胸に、上総国から江戸へ出てきた古橋笙之介は、深川の富勘長屋に住むことに。母に疎まれるほど頼りなく、世間知らずの若侍に対し、写本の仕事を世話する貸本屋の治兵衛や、おせっかいだが優しい長屋の人々は、何かと気にかけ、手を差し伸べてくれる。
家族と心が通い合わないもどかしさを感じるなか、笙之介は「桜の精」のような少女・和香と出逢い…。
しみじみとした人情にほだされる、ミヤベワールド全開の時代小説。
タイトルの「桜ほうさら」は、甲州南信州の「ささらほうさら」(いろいろなことがあって大変という意味)という言葉に桜をからめた言葉。桜の季節に始まる心温まる物語。

2016年最初の読書はこの作品でした。
タイトルが新春にぴったりですね。
内容は決しておめでたいわけではありませんが、宮部さんの作品ならではの、心にほのかな灯りがともるような、温かみのある読後感でした。


主人公の古橋笙之介は小藩出身の武士ですが、小心者で剣の腕前もからっきし、世間知らずで朴念仁で……となんだかとても頼りない人物として描かれています。
それでも、読んでいて決して不快感はなく、むしろ読み進めるうちにどんどん笙之介に対する好感度が上がっていくのです。
宮部作品を読むといつも思うことですが、英雄でもなく天才や秀才でもなく、特にこれといった特技もなく、かと言って悪人でもない、本当にごく普通の人をこんなに魅力的に描くことができるのは、宮部さんだけだと思います。
笙之介は確かに侍としてはちょっと物足りないというか、武士以外の身分に生まれた方がよかったのかもしれないと思えるところもありますが、とてもまっとうな物の考え方ができて、心優しくて、真面目で、まっすぐ懸命に生きている人なのです。
そういう人となりが、物語の端々からしっかりと伝わってきます。
何も大きな仕事を成し遂げなくたって、歴史に名を残さなくたって、出世しなくたって、人柄のよい笙之介には、彼を気にかけてくれる人や、助けてくれる人が周りにたくさんいます。
向上心を持って自分を高める努力は必要かもしれませんが、必要以上に高い目標を持たなくたっていい。
周囲の人たちの力を借りながら、そしてそのことに感謝しながら、誠実に生きていけばいい。
それだけで、人間としては十分じゃないか、と思えるのです。
笙之介の不器用ながらもまっすぐな生き方は、そのまま作者から読者へのエールなのだと感じました。


本作は一応ミステリの体裁をとっていて、身に覚えのない賄賂の疑いをかけられ、最終的に切腹に追い込まれた父の無念を晴らすべく、笙之介が事の真相を探るという筋書きになっています。
けれども核心に迫っていくのはかなり終盤になってから。
しばらくは一見本筋と関係なさそうなできごとがいくつか語られていくのですが、それらはどれも伏線になっていて、笙之介は本人も気づかぬ間に緩やかに真相に近づいていくことになります。
とはいえ、宮部ミステリの神髄は謎解きそのものにあるのではなく、謎解きを通じて繋がっていく人間関係や、真相が明らかになった後の笙之介の心情描写こそが読みどころです。
事件の顛末は笙之介にとってなんとも辛いもので、読んでいる側としても刀で斬りつけられたような痛みを感じましたが、早朝の川縁で出会った「桜の精」こと和香をはじめとして、笙之介が出会う人々との交流の様子には心が温まります。
主君のことを想い、国の民のことを想う老侍や、笙之介が住む長屋の住人たちや、笙之介に仕事を与えてくれる貸本屋の主人。
はっきりと定められた身分制度があった時代において、作中に言及がある通り、町場での暮らしの中では身分の違いを超えてみな助け合って暮らしていたというのは実際にそうだったのではないかと思いました。
だからこそ、江戸という町とそこで生まれたさまざまな文化の発展があったのだろうと思うのです。
ヒロインの和香との恋模様も、熱情を感じさせるようなものではなく淡々としてほのかな、それでいて確かに通じ合う男女の心の機微が丁寧に描かれていて、いかにも宮部さんらしく、そして笙之介と和香らしい控えめな恋愛描写がとてもいいなと思いました。


決して優しくあたたかいものばかりではなく、醜く冷たく汚いものも描かれています。
それでも生きてゆくことへの希望を感じさせてくれるこの作品は、春へと向かう季節に読むのにぴったりだと思いました。
☆4つ。