tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『この世の春』宮部みゆき

この世の春(上) (新潮文庫)

この世の春(上) (新潮文庫)

この世の春(中) (新潮文庫)

この世の春(中) (新潮文庫)

この世の春(下) (新潮文庫)

この世の春(下) (新潮文庫)


ごめんくださいまし──。宝永七年の初夏、下野北見藩・元作事方組頭の家に声が響いた。応対した各務多紀は、女が連れていた赤子に驚愕する。それは藩内で権勢をほしいままにする御用人頭・伊東成孝の嫡男であった。なぜ、一介の上士に過ぎない父が頼られたのか。藩中枢で何が起きているのか。一夜の出来事はやがて、北関東の小国を揺るがす大事件へと発展していく。作家生活三十周年記念作。

宮部みゆきさんの作家デビュー30周年記念として刊行された作品です。
個人的には宮部さんは社会派ミステリの印象が強いので、そちらの方が読みたかったな、なんて、これは私の勝手な希望ですね。
時代小説が苦手だった私がその苦手をある程度克服できたのは、宮部さんの作品のおかげでした。
それを思えば、記念作品が時代小説でよかったのかもしれません。


それに何より、時代小説だろうと現代ミステリだろうと、宮部さんが描きたい主題にはそれほど大きな違いがないように思います。
本作の主人公・各務多紀は、離縁されて実家に出戻り、隠居した父親の身の回りの世話をして暮らしている女性です。
その離縁の理由は、物語が進むにつれて少しずつ明かされていくのですが、読んでいて「これはひどい!」と本気で腹を立ててしまうような事情が描かれていました。
多紀がいかに深い傷を心に負ったか、容易に想像がつきます。
そんな多紀が、本人も想像すらしなかった思わぬ経緯からお仕えすることになるのが、北見藩の藩主の座から若くして退いた北見重興です。
重興は「押込 (おしこめ)」、つまり周りの重臣たちに「藩主として不適当」と判断され、強制的に引退・隠居させられたのですが、その原因は、重興がたびたび別人のように豹変するからだという、驚くような事情でした。
一体重興の身に何が起こっているのか、これが本作の最大の謎であり、多紀が重興の他の家臣や医師たちとともに謎解きに立ち向かっていくことになるのですが、やがて明らかになる重興の過去、そしてその過去のできごとにより心に負った深い深い傷は、恐ろしく、おぞましく、悲しいものでした。
これほどの心の傷には、事情は違っても同じく心に傷を抱えた多紀にしか向き合えなかっただろうということが、強い説得力をもって胸に迫ってきます。
こうした、心に傷を負った人々へ優しくあたたかいまなざしを注ぐような物語は、宮部さんの真骨頂ですね。
多紀と重興がそれぞれに自らの傷を乗り越え、心を通わせあっていく様子に、心を打たれます。


多紀や重興のみならず、他にもさまざまな事情を抱えた人物たちが続々登場するところも本作の大きな魅力です。
特に下女として働く14歳の少女・お鈴の健気さが印象的です。
彼女は雷害による大火事で家族を失い、自身もひどいやけどを負って、顔にやけど跡が残っているのですが、不幸な身の上の彼女に対する、周囲の人々の優しさや思いやりに泣かされました。
多紀のいとこである半十郎も、実直でそれゆえに不器用なところが憎めない人物なのですが、重くなりがちな物語の雰囲気を明るくする役割を果たしていて好印象です。
正義感は強いけれど、直情的なためにヒーロータイプにはなれない、そんなお侍さんですが、酒好きだったりほどほどに遊んだりしているところも、人間臭さにあふれていていいなと思いました。
そして、重興の別れた正妻である由衣の方が、出番は少ないのに非常に印象の強い人物です。
謎解きの根幹にかかわるネタバレになるので詳しくは書きませんが、本作は重興と由衣の方との美しいラブストーリーでもあるのだと思います。
時代小説における夫婦関係というと、特に身分が高い人の場合、戦略結婚のように家同士の事情が本人たちの気持ちよりも重んじられるものという印象がありますが、重興と由衣の方もお家の事情による婚姻でありながら、こんなに清らかでまっすぐにお互いを想いあう恋愛関係は、現代もののラブストーリーでもなかなかお目にかかれないのではと思うくらいの美しさでした。
ふたりの想いに多紀が触れる終盤の展開と、この美しい恋物語の結末に、鼻の奥がツンとしました。


序盤はホラーっぽいと思えるところもあったのですが、実のところ怪談でもなんでもなく、現代にも通じるような、人間の闇と、心の傷と、それを癒す過程とを描いた物語でした。
おぞましい場面や、恐ろしい描写もありますが、それ以上に作者の優しいまなざしが強く感じられ、救いのある物語になっています。
何より謎解きの過程は、舞台が江戸時代だというだけで、現代ミステリのそれとそう変わらないものだったのがうれしかったです。
宮部さんの極上ミステリを堪能することができました。
☆5つ。