tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『風よ あらしよ』村山由佳


明治28年、福岡県今宿に生まれた伊藤野枝は、貧しく不自由な生活から抜け出そうともがいていた。「絶対、このままで終わらん。絶対に……!」野心を胸に、叔父を頼って上京した野枝は、上野高等女学校に編入。教師の辻潤との出会いをきっかけに、運命が大きく動き出し──。野枝自身、そして野枝を巡る人々──平塚らいてう大杉栄らの視点で織りなす、圧巻の評伝小説。第55回吉川英治文学賞受賞作。

ひさしぶりに読んだ村山由佳さんの作品は、明治から大正の時代を生きた婦人解放運動家であり無政府主義者伊藤野枝の評伝小説でした。
これまでに読んできた村山作品はほとんどが現代を舞台とする恋愛小説だったので、時代設定も実在の人物を描いた伝記的な小説であるという点も非常に新鮮。
けれども、さすがの筆力で登場する実在の人物たちが生き生きと描かれており、今まで名前以外はよく知らなかった伊藤野枝という人物を一気に身近に感じることができました。


実在の人物を主人公とする歴史小説だと、その時代に何が起こりその人物は何をしたのかという史実をなぞる部分が多くなりがちですが、本作は伊藤野枝をはじめとするさまざまな人々の言動だけではなく、心理描写が丁寧で細やかなのがとてもよかったです。
フェミニストだのアナキストだのといわれるとちょっと身構えてしまいますが、そんな言葉だけでは表せない、伊藤野枝の人間としての、そして女としての姿がまるでそこに生きているかのように鮮やかに描き出されているので、偏見や先入観にとらわれることなく野枝のありのままを知ることができたように感じました。
口減らしのために親戚の家に里子に出されるなど貧しく不遇の子ども時代を送った野枝が読書に夢中になり、どうしても勉学を続けたいと必死に叔父に頼み込み、猛勉強の末に上野高等女学校に飛び級入学するあたりはあっぱれとしか言いようがありません。
「女だてらに」などという言い方は野枝に怒られそうですが、現代よりもずっと女性の置かれた立場が厳しく不自由だった時代に、自分の好きなことをしたいという自由への渇望と強い向学心、叔父を何通もの手紙によって説き伏せた根性と文章力は並大抵のものではなく、感嘆せずにはいられませんでした。
高等女学校の卒業後は恩師だった男性と駆け落ち同然の同棲生活を始めたり、無政府主義者として活動していた大杉栄と不倫関係になったりと、恋愛に関しては奔放な印象が強いのですが、親や親戚に勝手に決められた相手との結婚を強制されるような状況にあっては、反発心から自由を求めるがゆえに道ならぬ恋にも進んでしまうのだろうと、共感はできないまでも理解はできる気がします。


そう、共感はいまひとつしづらいのです。
野枝だけでなく、本作に登場するどの人物に対しても。
最終的に野枝の伴侶となる大杉栄にしても、自由恋愛主義を唱え、その恋愛の条件のひとつとして男女ともに経済的に自立していることを挙げながら、自分は愛人から経済的援助を受けているなどまったく言動が一致しているようには思われません。
無政府主義の主張に関しても、本作に描かれている範囲内では正直なところ何も理解できたようには思えませんでした。
でも、それでも。
恥ずかしながら、私は大杉栄伊藤野枝が殺害された甘粕事件について、詳しいことを知りませんでした。
本作を読んで、大杉と野枝以外にふたりのわずか6歳の甥が一緒に殺害されたこと、3人の遺体が井戸の底に遺棄されたことなど、事件の残虐性を初めて知りました。
当時の社会においてアナキストが危険視されていたことは、テロリスト的な過激な活動家もいたことを思えば、仕方がないことのようにも思えます。
それでも、ただ「危険な」思想の持ち主だというだけで、こんな残虐な殺人事件が起こってしまうのは異常と言わざるを得ません。
関東大震災の直後で社会にまだ動揺がある時期だったというのも大きいのでしょうが、不安が憎悪に変わり、暴力へと向かう当時の空気を少し吸い込んだ気分になり、胸に黒々としたものが広がるような読後感でした。


あまりよく知らなかった伊藤野枝ですが、思ったよりもずっと魅力的な人物でした。
若くして無残な形でこの世を去ったことが、残念でなりません。
他にも与謝野晶子平塚らいてうなど、私のような歴史音痴でも知っているレベルの人物が登場して、ぐっと日本近代史が身近になったように感じられました。
普通にひとりの女性の生涯を描いた小説としても面白かったです。
☆4つ。