tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『ヴェネツィア便り』北村薫

ヴェネツィア便り (新潮文庫)

ヴェネツィア便り (新潮文庫)

  • 作者:北村 薫
  • 発売日: 2020/10/28
  • メディア: 文庫


「もし、あなたがこれを読む時、ヴェネツィアがもうないなら、これは、水の底から届いた手紙ということになります」「ヴェネツィアは、今、輝く波に囲まれ、わたしの目の前にあります。沈んではいません」―三十年の時を越えて交わされる“わたし”と若い“あなた”の「ヴェネツィア便り」。なぜ手紙は書かれたのか、それはどんな意味を持つのか。“時と人”を描く懐かしくも色鮮やかな15の短篇。

1ページちょっとのショートショートから、それなりに読み応えのある作品まで、15作もの短編が収録されています。
話としては短くとも、ほろ苦さや切なさ、恐怖や郷愁など、人間の繊細な心模様が丁寧に織り込まれ、深い余韻が感じられる作品ぞろいです。


帯に「時と人」という言葉を見つけたときには、心が躍りました。
何を隠そう「時と人」三部作、『スキップ』『ターン』『リセット』は、北村作品の中でも特に私のお気に入りだからです。
実際のところ、収録作すべてが「時と人」をテーマとしているわけではありませんが、一番「時と人」三部作に近い読み心地なのは、「岡本さん」という作品でした。
主人公と同じ会社に勤める、地味で無口で目立たない男性、「岡本さん」。
実はそんな「岡本さん」が、「時間を巻き戻す」という特殊能力を持っているという話です。
「時間を操れたらいいのに」というありふれた願いは人間の欲望と結びつきやすいものですが、それだけに実際にそうできたとしたらどうなるかという想像には、背筋が寒くなる怖さがあります。
本作の結末も何が起こったかを断定的に書かず、主人公の想像のみにとどめることによって不安感をかきたて、不穏な空気が漂うものとなっています。
星新一さんのショートショートに似た印象のある読後感で、お気に入りの作品となりました。


次点のお気に入りは表題作の「ヴェネツィア便り」でしょうか。
ヴェネツィアへの旅に出かけた主人公が、30年後の自分に宛てて、旅行記形式の手紙を書きます。
それを30年後に読んだ主人公が、再びヴェネツィアを訪れ、30年前の自分に返信を書くという、変則的な往復書簡形式の作品です。
私はヴェネツィアには行ったことがないので、主人公が書く手紙の内容から風景を想像するしかないのですが、なんとも旅情がかきたてられる手紙でした。
自由に海外旅行に行くことができない今、こうして小説を読みながら旅の気分を味わうというのは、楽しくも切ない気持ちになります。
そういえばヴェネツィアもロックダウン下で観光客が来なくなって、水質が改善しきれいになったという話をニュースでやっていたなと思い出したりしました。
まだ学生の主人公が「ヴェネツィアはいずれ水底に沈むそうだ」ということを手紙に書いていて、30年後の主人公は「まだ沈んでいない」ということを返信するのですが、沈んでいなくても観光客がやってこなくなる日が来るとは、まさかこの主人公も想像できなかっただろうなと思うと、「世の無常」のようなものを感じて胸が詰まります。
未来のことに関しては、本当に何が起きるかわからないのが現実です。
行きたい場所には行ける時に無理をしてでも行っておくべきだと思いますし、私の行きたい場所リストにヴェネツィアも加えようと思いました。


他には「誕生 アニヴェルセ―ル」や「機知の戦い」、「黒い手帳」「高み」などが印象に残りました。
北村さんらしく文学に絡んだ話やオチが印象的なもの、ホラーまで、バラエティに富んだ作品集なので、誰が読んでもどれかは必ず心に響くだろうと思います。
繊細かつ、ユーモアのある文章を存分に味わうことができました。
☆4つ。




●関連過去記事●
tonton.hatenablog.jp
tonton.hatenablog.jp