tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『戦場のコックたち』深緑野分

戦場のコックたち (創元推理文庫)

戦場のコックたち (創元推理文庫)


1944年6月6日、ノルマンディーが僕らの初陣だった。コックでも銃は持つが、主な武器はナイフとフライパンだ――料理人だった祖母の影響でコック兵となったティム。冷静沈着なリーダーのエド、陽気で気の置けないディエゴ、口の悪い衛生兵スパークなど、個性豊かな仲間たちとともに、過酷な戦場の片隅に小さな「謎」をみつけることを心の慰めとしていたが……『ベルリンは晴れているか』で話題の気鋭による初長編が待望の文庫化。直木賞本屋大賞候補作。

手に取るとずっしり重く分厚い1冊ですが、中身の方もかなりの重みと厚みがありました。
初めて読んだ作家さんですが、キャリアは短いながら、文章も内容もベテラン作家にも負けない実力を感じさせるもので、あっという間に物語に引き込まれました。
さまざまな賞の候補にあがり、年末恒例のミステリランキングに顔を出したのも納得の大作です。


そもそも私が本作に対して一番興味をひかれたのは、「日常の謎」を扱うミステリだという点でした。
北村薫さんや加納朋子さんなど、「日常の謎」の名手と呼ばれる作家さんたちが好きでずっと追ってきていますが、この作品は今まで読んだどの「日常系ミステリ」とも毛色が違っていました。
日常系ミステリというと、殺人事件が起きず、したがって優しい作風の穏やかなミステリという印象を持たれがちですが (実際のところそうでもないと思いますが)、本作はまったくそのような印象には当てはまりません。
なにしろ舞台が戦場で、謎解きをするのは戦闘に明け暮れる兵士たちなのです。
殺人事件は起きなくとも、人は殺し殺されまくっていて、殺人事件よりもひどい非人道的な行為すら存在します。
そんな「非日常」の場が、主人公であるティムをはじめとする兵士たちにとっては、紛れもない「日常」であるということ。
一体「日常」とは何なのかと、いままであまり考えたことのないことを、考えずにはいられませんでした。
もともとは家族や友人たちとともに平穏な日々を過ごしていたはずのティムたちが、戦場と戦いに慣れていくうちに、負傷しても早く戦場に戻りたくなるというくだりにはハッとさせられます。
ティムは志願して兵士になったものの、別に人を殺したいと思ったわけでもなく、戦いが好きなわけでもないでしょう。
それでも彼らにとっては戦場こそが自分の居場所であり、日常なのだから、そこに戻りたいと思うのは当然なのかもしれません。
「日常」の中身をまったく異なるものに変貌させてしまう戦争の恐ろしさに改めて震撼するとともに、それを「日常の謎」というミステリの一ジャンルによって描き出すという作者の発想に感嘆しました。


主人公ティムの「コック兵」という役割についても、私にとっては知らなかったことばかりで、大いに好奇心をかきたてられました。
コックというからには調理がメインの仕事なのかと思いきや、決して後方支援というわけではなく、前線に出て他の兵士たちとともに戦うというのも、私にとっては驚きでした。
他の兵士たちと同じように命がけで戦っているのにもかかわらず、コック兵は他の兵士から見下されがちというのはなんだか理不尽なように思われて、ティムの気持ちになってムカッとしたりしました。
戦場で具体的にどんなものが食べられているのかについての描写もたいへん興味深く読みました。
意外とおいしそうと思えるものもあれば、これはちょっと……というものも。
もちろん戦場なのですから食材は限られ、味よりもいかにして兵士に必要な栄養分やカロリーを摂取できるようにするかが重視されるわけです。
どちらかというと、「料理」というよりは、あまりいい表現ではありませんが「エサ」に近いのかもしれません。
謎解きの題材のひとつにもなっている「粉末卵」には、そんなものがあるとはと驚きました。
味はひどいもののようですが、どんなものだか見てみたいですね。
ですが、いかに食材が限られていようとも、調理をしたものを食べるということが、兵士たちには何より大切だったのではないかと思います。
「料理を作る」「料理を食べる」という行為は、単に生命維持のためだけではなく、人間が人間らしくいられるために必要な行為なのではないかと思うのです。
終盤のある場面で、ティムがさまざまな料理のレシピを声に出して暗唱するのですが、特に悲しい場面ではないのになぜだか泣けて泣けて仕方ありませんでした。
ティムにとって、調理は自らの仕事であるだけでなく、家族との思い出に結びついたものでもあります。
故郷から遠く離れた戦地で、コック兵として他の兵士から見下されながらも、料理こそがティムの心の支えになっていることが、何よりも心に強く響きました。


兵士たちの人間関係や、戦場の厳しさ、ナチスドイツの残虐さなど、ほかにも読みどころ満載で、お腹がいっぱいになる1冊です。
細かく丁寧な描写のおかげで、なじみのない題材でも読みやすく、謎解きについても新鮮味たっぷりの「日常の謎」を満喫しました。
同じ作者のほかの作品もぜひ読んでみたいです。
☆5つ。
ところで、終盤にティムがある人物についての「秘密」を知ることになるのですが、この「秘密」の具体的な内容については明言されず、最後まで謎のまま残ります。
「その人物が〇〇であること」ということでいいのかな……?