tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『沼地のある森を抜けて』梨木香歩

沼地のある森を抜けて (新潮文庫)

沼地のある森を抜けて (新潮文庫)


はじまりは、「ぬかどこ」だった。先祖伝来のぬか床が、うめくのだ―「ぬかどこ」に由来する奇妙な出来事に導かれ、久美は故郷の島、森の沼地へと進み入る。そこで何が起きたのか。濃厚な緑の気息。厚い苔に覆われ寄生植物が繁茂する生命みなぎる森。久美が感じた命の秘密とは。光のように生まれ来る、すべての命に仕込まれた可能性への夢。連綿と続く命の繋がりを伝える長編小説。

梨木香歩さんの描く世界にはいつもはかない生命をやさしく包み込むような包容力を感じますが、この『沼地のある森を抜けて』は逆に生命の強さや激しさのようなものを感じました。
今までの作品と少し異なる描き方にとまどいつつも、日常とファンタジーとの境界線があいまいな独特の世界観は、やはり梨木さんらしいとも感じました。


物語はぬか床から始まります。
主人公・久美の祖父母の代から受け継がれてきたいわくつきのぬか床は、手入れをする人が気に入らないとうめき声を上げ、卵を生じたり、幽霊のような謎の人物が出てきたりと、何とも言えず不気味な存在。
ホラーのようなSFのような不思議な雰囲気から、物語は微生物だの細胞だのといった生物学的な側面を見せ、最後には生命の根源に迫る壮大な広がりを見せます。
生物学の専門用語(といっても私にろくに知識がないだけで、実際はそう専門的でもないのかもしれませんが…)が頻出し、哲学のにおいのする登場人物たちの議論、そして作者の独特の生命観が色濃く反映された物語には、正直なところついていけない感じもありました。
ぬか床一つからここまで物語を広げてしまうのがすごい、とただただ感心するばかりでした。


印象的だったのは無性生殖と有性生殖の捉え方。
地球上に最初に登場した原始の生命はもちろん無性生殖だったわけですが、1つのものが2つに分裂しようとするのが無性生殖であるのに対し、その後進化した生物が有性生殖において2つのものを1つに結びつけようとするようになった、と書かれています。
あまり私の中にそういう発想がなかったので、これには素直に面白いなぁと思いました。
この作品の重要な登場人物の一人として「風野さん」という男性がいます。
彼は、自らの遺伝子をできるだけ多く残そうという欲求を持った男性という性に嫌気がさして、無性であろうとしている少し風変わりな人物です。
主人公の久美も、恋愛に対して淡白というか、男性の気を惹くために何かをしようというような部分が全く見られない、やはりこれも女性としては一風変わった人物として描かれています。
このような性をある意味否定しているような2人が、ぬか床を仲介に知り合い、ぬか床の謎を解くために、久美の先祖が住んでいた島へ2人で旅立っていきます。
そこでぬか床の秘密に触れ、太古の昔から連綿と続いてきた命の流れの中に彼ら自身も生まれてきたのだということを、2人は「沼地」の濃密な生命の営みの中で感じるのです。
世界にたった一つのものとして生まれてきた「孤独な」命が、その孤独に耐えかねて分裂し増殖を繰り返して、その先に生じた私たち人間を含む有性生殖の生物もまた、自らの内にある「孤独」に耐えかねてもう一つの「孤独な」存在と繋がって新たな生命を生み出してゆく。
そうであるならば、結局のところ「恋愛」も永く続く生命の流れをつないでいこうとする本能的な要素に過ぎないわけで。
そんなふうに「命」や「性」を捉え、ファンタジー小説の体裁をとって描き出した作者の発想力に、感嘆させられました。


いやはや、いろんな意味でなんとも「濃い」物語でした。
もう少しとっつきやすいともっとよかったのですが、それでも今まで考えたことのなかったようなことを考えさせられ、読み応えがありました。
☆4つ。