tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『鹿の王』上橋菜穂子

鹿の王 1 (角川文庫)

鹿の王 1 (角川文庫)

鹿の王 2 (角川文庫)

鹿の王 2 (角川文庫)

鹿の王 3 (角川文庫)

鹿の王 3 (角川文庫)

鹿の王 4 (角川文庫)

鹿の王 4 (角川文庫)


強大な帝国・東乎瑠から故郷を守るため、死兵の役目を引き受けた戦士団“独角”。妻と子を病で失い絶望の底にあったヴァンはその頭として戦うが、奴隷に落とされ岩塩鉱に囚われていた。ある夜、不気味な犬の群れが岩塩鉱を襲い、謎の病が発生。生き延びたヴァンは、同じく病から逃れた幼子にユナと名前を付けて育てるが!?たったふたりだけ生き残った父と子が、未曾有の危機に立ち向かう。壮大な冒険が、いまはじまる―!

2015年の本屋大賞を受賞した大作が文庫化されました。
上橋さん得意のスケールの大きいファンタジーに医療というテーマを組み合わせ、そこに民族や国同士のしがらみや政治的な思惑までも絡めた、非常に読み応えのある作品でした。


現役の医師が書かれた医療小説はいくつか読んだことがあり、わりと好きな分野ですが、医師などの医療の専門家ではない上橋さんが書かれるとどんなふうになるのだろう、と興味津々でした。
戦に敗れて奴隷になった戦士・ヴァンが労働をさせられていたアカファ岩塩鉱が犬に襲われ、その犬たちにかまれた人々が次々謎の病で命を落とします。
ヴァンも発症するものの、なんとか回復して同じく生き残った赤ん坊を連れて岩塩鉱を脱出しますが、嗅覚が異常に鋭くなっているなど、自分の身体に変化が起きていることに気付きます。
一方、医術師のホッサルは岩塩鉱の悲劇の話を聞き、その恐ろしい病について調査を始めます。
本作はファンタジーですが、医療に関しては現実の医療とそう大きくは違いません。
ホッサルは「オタワル医術」と呼ばれる、現実世界の西洋医学に近い医術を身につけていて、少しでも多くの命を救うため、新たな病に対して慎重に症状を見極めて治療を施し、発症者の血液などを手に入れてワクチンを作り出そうと努力します。
治療法や予防法がどのように確立されていくのか、その過程が丁寧に描かれているため、私のような素人でも医学の基礎の基礎の部分がよく分かりました。
最愛の妻子を病気で亡くした経験を持つヴァンの、なぜ病に罹る者と罹らない者がいて、治る者と治らない者がいるのか、という悲痛な問いに対し、病気が発生するメカニズムをホッサルが噛み砕いて説明するくだりも、医学知識など全くない者にもとても分かりやすく、非常に納得のいく説明がなされています。
それは上橋さんご自身の説明力に他なりません。
専門外のことであってもこれだけ分かりやすく言葉のみを用いて解説できるのは本当にすごいことだと感嘆するばかりでした。


さらに、本作の世界では、ホッサルが身につけている「オタワル医術」のほかに、「清心教医術」というものも存在します。
これはある国の宗教的価値観に基づいた医術で、病を治したり予防したりということを重要視するオタワル医術とは異なり、患者の苦しみに寄り添い苦痛を和らげることを第一の目的としています。
ホッサルはオタワル医術に基づき、病を発症した動物の血から作った治療薬やワクチンを使用しますが、清心教の教徒は「獣の血を体内に入れると穢れる」と、そうした治療法や予防法を拒絶します。
価値観や信仰が異なるゆえにそうした違いが出てくるわけですが、本作のよいところはそのどちらが正しいとも正しくないとも決めつけていないところだと思います。
西洋医学に日々助けてもらっている現代日本人の私としては、なんとなくオタワル医術の方がよいような気がしてしまいますが、清心教医術も病に苦しむ人を救いたいと思っているのは同じで、ただ病気に対するアプローチの仕方が違うだけなのだな、と感じました。
きっと、医療についてだけではなく、人間が為すことのさまざまな面で同じようなことが言えるのでしょう。
民族や国によって、考え方や感じ方、信じるものが異なり、それは時に軋轢を生む原因になったりもしますが、どちらが正しいと断言できるようなことではないのだと思います。
異なる思想や考え方を、自分とは相容れないと思ったとしても否定するのではなく、尊重することが大切なのですね。
ラストシーンで出自が異なる登場人物たちが共に同じ場所を目指して旅立っていく場面が非常に印象的でした。
国や民族といった大きな単位ではなかなかうまくいかない場合もありますが、個人同士なら折り合いをつけて共に歩んでいくことも難しくはないのではないかと思え、とても心強くすがすがしさを感じた結末でした。


医療のこと、人間の身体の仕組みのこと、さらに国や民族同士の政治的駆け引きや、個人間のドラマなど、一見難しそうなテーマが詰め込まれていましたが、さすがのリーダビリティでぐいぐい読まされました。
動物や植物に関する描写も満載で、物語全体に生命力があふれていました。
欲を言えば終盤の展開にもう少し盛り上がりが欲しかったかな。
でも、読み応えたっぷりで、読んでいて楽しく勉強にもなり、読む価値があったと思える作品です。
☆4つ。