日本からの密偵に通訳として帯同した細川。ロシアの鉄道網拡大のために派遣された神父クラスニコフ。桃源郷の噂に騙されて移住した孫悟空。地図に描かれた存在しないはずの島を探し、海を渡った須野。日露戦争前夜、満洲の名もなき都市に呼び寄せられた人々は、「燃える土」をめぐり殺戮の半世紀を生きる。広大な白紙の地図を握りしめ、彼らがそこに思い描いた夢とは……。第13回山田風太郎賞受賞作。第168回直木三十五賞受賞作。
先日『君のクイズ』を読んだばかりですが、今度は同じ小川哲さんの直木賞受賞作です。
舞台は満洲、前前世紀 (!) の1899年から始まって1955年までの60年弱という長い時間軸で、開拓と戦いの歴史を描いています。
満洲を舞台にした作品はいくつか読んだことがあったのですが、満洲の歴史について自分はあまりにも無知だということを思い知らされる読書になりました。
正直なところ、背景知識が足りない私には、非常に難解な作品でした。
もしもこの記事の中に的外れなところがあったら、それはひとえに私の知識不足が原因だということをまず最初に記しておきます。
あまり丁寧に時代背景などが説明される作品ではなく、群像劇のように視点人物が頻繁に移り変わる構成についていくのもなかなか大変でした。
序章に登場するある人物が主人公なのかと思いきや、早々に物語から退場してしまうことにまず驚きました。
その冷酷さが、そのまま満洲という地の血なまぐさい歴史を物語っているようで、ぞっとします。
同じく序章に登場する学生で通訳の細川という人物が、最初は軟弱そうなイメージなのですが、話が進むにつれてどんどん印象が変わっていって、物語後半では何かを企んでいそうな、得体の知れなさを見せ始めます。
一体細川は何を考え、何をしようとしているのか。
その謎にミステリ的興味を喚起され、難解な物語がようやく読みやすくなりました。
ミステリ的な謎といえば、須野という人物が追い求める「地図に描かれている、実際にはないはずの島」の謎も面白いです。
青龍島 (チンロンタオ) というその島の謎は、須野の息子で建築家になった明男がヒントを与え、最後の最後になってようやく解き明かされます。
今まで地図というものに何の思い入れもなかった私にとって、地形や地名などの地理的特徴を正確に記録するのではなく、現実とは異なる人間の思いが地図に込められていることがあるというのは驚きでした。
「地図を描く」ということの意味など今まで考えたこともなかっただけに、新たな視界が目の前に開けたような気持ちになりました。
そして、本作では「地図」の物語と「拳」の物語が交互に描かれます。
そのままそれが満洲の歴史なのです。
荒野だったところに日本人やロシア人が入って、都市を建設していった歴史。
中国 (清、中華民国)、ロシア (ソ連)、日本と、複数の民族や国のさまざまな思惑が入り乱れる場所なのですから、そこに争いが生まれ、荒れるのは必至です。
ある集落の住民たちを日本兵が皆殺しにし滅ぼしてしまうくだりのあまりのひどさには背筋が寒くなりました。
五族協和というスローガンを掲げていながらこのような暴力による支配をしていたのでは、抗日ゲリラによる抵抗が激しくなるのも当然のことでしょう。
どうしてこのようなやり方しかできなかったのか。
もちろん、欧米による侵略や植民地支配も世界各地で行われていた時代で、そういう時代だったのだ、と言われればそのとおりなのですが、暴力の応酬はどの国にとっても、どの民族にとっても、犠牲や損失の大きいものです。
物語終盤に入った「第十四章 一九三九年、冬」の最後の一文「戦争は始まっていなかったが、始まる前から終わっていたのである。」があまりにも重くて押しつぶされそうになりました。
1930年代の日本が人口増に耐えられず移民先を必要としていたこと、世界の列強に対抗するために資源が必要だったことなどが満洲への進出につながり、日露戦争のほとんど唯一の戦利品となった満洲を死守しなければならなくなり、リットン調査団の調査結果に反発して国際連盟を脱退し対米戦争へ――という道は、敗北につながる道だと本格的な戦争が始まる前からわかっていたのに避けられなかった。
どこで間違ってしまったのか、どの時点であれば最悪の結末を回避するのに間に合ったのか。
日本では戦争は終わりましたが、自国の利益のために地図を書き換えようとする動きも、そのために拳を振るうことも、今も変わらず世界中でずっと続いていることです。
後世の人間として過去の過ちを未来に繰り返すことを避けるために、歴史を学び考える必要があるのだと、再認識させられました。
満洲の架空の都市を舞台に創作された人物たちを描くフィクションですが、十分に史実に基づいた物語であることは、下巻巻末の10ページにもわたる圧巻の参考文献リストが証明しているでしょう。
骨太の歴史小説でありながら、孫悟空 (ソンウーコン) を名乗るスピリチュアルな武術を極めた人物が描かれるなど若干ファンタジー要素もあって、非常に個性的な作品でした。
中国語の地名や人名が覚えづらく、構成も複雑で、決して読みやすい作品ではありませんが、読書好きを引きつける読み応えのある作品であることは確かです。
☆4つ。

