tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『正欲』朝井リョウ


自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな――。息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づく女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり始める。だがその繫がりは、”多様性を尊重する時代"にとって、ひどく不都合なものだった。読む前の自分には戻れない、気迫の長編小説。

朝井リョウさんの作品には毎回頭をガツンと殴られたような衝撃を受けているのですが、本作も例外ではありませんでした。
昨今はやりの (?) 「多様性」をテーマにした作品ですが、多様性が尊重される世界は素晴らしいなんていう浅い作品なわけがない、だって朝井リョウさんなんだから。
と思いつつも、この物語は私の予想をはるかに超えていきました。
非常に挑戦的で、「攻めた」作品です。


物語は3人の男性が児童ポルノ所持で逮捕されたという記事の内容から始まります。
小児性愛はさまざまな性愛の形の中でももっとも忌み嫌われていると言っても過言ではないでしょう。
それは、大人と子どもは対等ではなく、どうしたってその力関係の中で大人から子どもへ一方的に押し付けられる性欲は犯罪にしかなり得ないからです。
そのような性愛を冒頭で取り上げるということの意味が、読み進めるにつれてじわじわと効いてきます。
本作に何人か登場する主人公のひとり、寝具店に勤める夏月は、ある「特殊性癖」を持った女性です。
ネタバレになってはいけないのでその特殊性癖が具体的にどんなものかには触れませんが、性欲の対象がこれほど特殊な人もいるのか、と軽い驚きがありました。
そう、まさに「特殊」としか言いようがない。
でも、小児性愛に比べたら受け入れやすい気はします。
被害者が出るような犯罪には結び付きにくいと思われるからです。
それでも、特殊なだけに世間には理解されにくい、というより認識すらされづらい。
「性の多様性」としてLGBTQの権利が叫ばれる中でも、こうした特殊性癖の人たちは、その「多様性」の枠の中にさえ入れないのです。
作中、夏月以外にも何人か同じ特殊性癖を持つ人たちが描かれますが、彼らは自分の特殊性に苦しみ、生きづらさを抱えています。


正直なところ、そうした多様性の外に押し出されてしまう人々の存在を想像すらしたことがなかったので非常に衝撃を受け、あえてそこに意識を向けさせた朝井さんにうっすらとした怖さすら感じたのですが、それでもこの物語は人間の普遍性を描いているとも感じました。
タイトルの「正欲」はもちろん性欲をもじったものですが、意味としては「正しくありたいという欲」が一番近いのだと思います。
誰だって自分は間違っているなどとは思いたくないものです。
自分は正しい、正しいことをしていると信じたいのは誰でも同じでしょう。
主人公のひとりとして登場する啓喜 (ひろき) などは検事という職業柄、その思いが特に強い人物です。
そんな啓喜には小学生の息子が不登校となりユーチューバーとして活動し始めたことがなかなか受け入れられません。
それは啓喜にとっては「正しい」小学生のあり方ではないからです。
そんなふうに誰もが自分なりの「正しさ」の基準を持っている。
けれどもそれは個人の価値観に基づくものであって、すべての人にとって「正しい」ものではないのではないか。
自分の「正しさ」を他人に押し付けることは、時に暴力的になり得ます。
正しくありたい人々が叫ぶ多様性を、特殊性癖の持ち主のひとりである大学生・大也 (だいや) は拒否し、否定する言葉を同じ大学の学生・八重子に投げつけますが、それに対する多数派の「正しさ」の側にいる八重子の反論の言葉も、それなりに説得力がありました。
結局、大也の主張も大也にとっての「正しさ」に基づいている。
彼の言葉は、彼のやっていたことは、本当に「正しい」のかと、考えずにはいられません。
多数派だろうと少数派だろうと、自分が正しいと思いたい欲は、人間ならみな等しく持っているものなのでしょう。
特殊だとか特殊でないとか、そんなことは関係がないのです。


正しさとは何なのか、自分は過度に正しさを求めすぎていないか――と考えさせられる物語でした。
多様性についても、読む前と読んだ後では、少し考え方が変わったような気がします。
けれども、多様性の外側にいる人たちのことをどう考えればいいのか、どう多様性の枠の中に入れればいいのか、いやそれとも入れる必要はないのか、それについては読了後の今も答えが出ません。
モヤモヤとした読後感を抱きつつ、それでも目からうろこが落ちたというか、何か新しい視点が自分の中に芽生えるのを確かに感じられた作品でした。
☆5つ。