tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『坂の途中の家』角田光代

坂の途中の家 (朝日文庫)

坂の途中の家 (朝日文庫)


刑事裁判の補充裁判員になった里沙子は、子供を殺した母親をめぐる証言にふれるうち、彼女の境遇に自らを重ねていくのだった―。社会を震撼させた乳幼児の虐待死事件と“家族”であることの光と闇に迫る、感情移入度100パーセントの心理サスペンス。

ひさしぶりに角田光代さんの作品を読みましたが、やはり心理描写がうまいなぁとうならされました。
裁判員裁判を描いているというところに興味を持って読み始めたのですが、実際に読み進めていくと、とにかく主人公の里沙子の心情が本のページからあふれ出るかのごとく伝わってきて、圧倒されました。


母親が子どもを風呂に落として殺害したという事件の裁判の補充裁判員に選ばれた里沙子。
里沙子自身も幼い娘を育てている母親です。
裁判に出席し、被告人や証人たちの話を聞くうちに、里沙子は被告の女性に自分自身を重ねていくようになります。
もちろん里沙子は子どもを殺したりはしていません。
それでも、思い通りにはならない我が子にイラついてしまう、夫や義母の言動に不満を感じる。
ついには、事情を何も知らない第三者が見たら虐待を疑われても仕方がないかもしれないようなこともしてしまいます。
自分は良い母親ではないのではないか、どこかおかしいのではないかと自問自答し、不満や怒りをぐっと呑みこみ、どうにか自制する里沙子の心の動きが生々しく、読んでいるこちらも息苦しいようなつらさを感じました。
里沙子は確かに理想的な母親ではないかもしれませんが、それは誰でも同じなのではないでしょうか。
私はむしろ里沙子はよく自分を抑えている方だと思いましたが、自分を抑えることによって苦しむ里沙子が痛ましくてなりませんでした。


裁判を通して「追いつめられた母親」の姿を客観的に見ることができるようになったことで、里沙子は自分に対する夫や義母、さらには実の母親の言動はモラルハラスメントだったのだと気づきます。
セクハラやパワハラも含め、ハラスメントの根の深い問題点は、ハラスメント加害者の方には特に悪いことをやっているという意識はない、というところではないかと思います。
むしろ相手のためを思って、という場合すらあるでしょう。
里沙子の夫も、特に悪意があるわけではないのだと思います。
それでも、自分の気持ちや世間体が優先で里沙子の気持ちを考えていないところがあったり、里沙子を自分より下に見たりしているところがあって、それらが里沙子を不快にさせ、不安にさせ、追いつめていく言動につながっている。
特に暴力的な男性というわけではない夫に対して、恐怖に似た感情を抱いてしまう里沙子の気持ちは十分理解できました。
自分のことを尊重してくれない人と、家族としてずっと一緒にいなければならないというのは苦痛以外の何物でもないと思います。
読んでいる間中ずっと苦しくて悲しい物語でしたが、最後に里沙子がたどりつく結論には少し痛快さを感じ、救われたように思いました。


裁判員裁判についての描写も興味深かったです。
補充裁判員でも裁判にはずっと出席しなければならないということに驚き、改めて裁判員とは負担の大きい任務だと感じました。
育児中の母親の心理やモラハラが主題の作品ですが、日本の有権者なら誰もが他人事ではない裁判員制度について知ることができる貴重な作品でもあります。
追いつめられている育児中の母親たちをどうやったら救えるのか、裁判員制度に改善の余地はないのかなど、読み終わった後もあれこれ考えさせられました。
☆4つ。