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tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『約束の海』山崎豊子

BOOK REVIEW

約束の海 (新潮文庫)

約束の海 (新潮文庫)


海上自衛隊の潜水艦「くにしお」と釣り船が衝突、多数の犠牲者が出る惨事に。マスコミの批判、遺族対応、海難審判…若き乗組員・花巻朔太郎二尉は苛酷な試練に直面する。真珠湾攻撃時に米軍の捕虜第一号となった旧帝国海軍少尉を父に持つ花巻。時代に翻弄され、抗う父子百年の物語が幕を開ける。自衛隊とは、平和とは、戦争とは。構想三十年、国民作家が遺した最後の傑作長篇小説。

沈まぬ太陽』を読んで衝撃を受けて以来、もっと山崎豊子さんの作品を読みたいと思ってきましたが、どの作品もかなりのボリュームがあるため、なかなか手が出せないでいるうちに、山崎さんは鬼籍に入られてしまいました。
この『約束の海』は、残念なことに未完のまま遺作となりました。
海外を含めた多方面に対し丁寧に取材を重ね、何度もストーリーを練り直して磨き上げられた作品であることが読んでいて伝わってくるだけに、物語を完成させることなくこの世を去らなければならなかったことは、ご本人にとっても非常に悔しく無念だったのではないかと思います。


未完とはいえ、物語の導入部にあたる第一部はきちんと完結しており、これだけでも十分な読み応えがあります。
海上自衛隊で潜水艦の乗組員としてのキャリアを積み始めた花巻朔太郎を主人公に、彼が搭乗する潜水艦と民間の遊漁船との衝突事故、そしてその後の事故対応を描きつつ、花巻個人のほのかな恋や旧日本軍海軍少尉だった父とのエピソードなどが盛り込まれています。
知識不足でお恥ずかしい限りですが、潜水艦と民間の船が衝突し、多数の犠牲者やけが人を出して自衛隊が厳しい批判にさらされた事件というのは、実際にあったことなんですね。
1988年の「なだしお事件」というのがそれです。
作中では潜水艦の名前は「くにしお」となっていますが、事件の概要はほぼ「なだしお事件」そのままのようです (完全に同じというわけではなく相違点もありますが)。
当時は今よりもずっと自衛隊に対する風当たりがきつかったのだろうという、その頃の日本社会の空気感が生き生きと伝わってくる描写がさすがです。
過去の自衛隊が関係する事件を描くことによって、現代における自衛隊の存在意義を問おうという山崎さんの意図も、第一部だけでもすでに感じ取ることができます。
作中でも触れられている通り、災害時における救護活動や被災者への支援活動がクローズアップされがちですが、それは自衛隊の本業ではありません。
あまり報道されることのない、日々の地道な訓練や警戒活動によって日本の平和が守られているのだということ、それこそが山崎さんが本作を通して読者に訴えたかったことなのでしょう。
第一部のあとがき的な文章にある、「戦争をしないための軍隊」という言葉が心に重く響きます。
戦争の悲惨さを身をもって知る世代であり、戦争反対の立場を貫いた山崎さんならではの自衛隊観は、私のような戦争を知らない世代こそが学ぶべきものだと思いました。


書かれないままになった第二部と第三部については、シノプシス (構想) という形であらすじを読むことができます。
花巻が父の過去をたどる旅に出たり、中国原潜が領海侵犯し一触即発の事態になったり――と、あらすじだけでもかなり面白そうで、やはり完結されたものを読みたかったという気持ちが沸き上がります。
特に花巻の父の話は、第一部でも少し触れられており、一体どんなつらい体験があったのだろうと想像力をかきたてられていただけに、詳しい内容をぜひ読みたかったです。
真珠湾攻撃の際に日本人捕虜第一号となった、これまた実在の人物が花巻の父のモデルだそうなので、関連の資料や書籍をあたればその詳細については知れるのでしょうが、『沈まぬ太陽』で日航機墜落事故が現場の暑さや匂いまで伝わってきそうなほど生々しく描かれていたことを思うと、やはり山崎さんの文章で読んでみたかったと思わずにはいられません。
第三部も物語の終焉に向かって一番の盛り上がりを見せるパートになったはずで、読者として結末を自由に想像できるという楽しみもなくはないですが、山崎さんがどのような落としどころを考えておられたのかが一番気になります。
また、第一部で描かれた、花巻とフルート奏者の頼子の恋物語も、重いテーマの中爽やかで心和めるよいアクセントになっていましたし、山崎さんご自身も楽しんで書かれていたようなので、もっともっと読みたかったです。


どうしても「この作品の完成版が読めず残念」という感想に終始してしまいますが、それだけ第一部の内容がよく、その先の展開に期待を抱かせるものだったということです。
改めて山崎豊子さんという作家の存在感を思い知らされました。
新作が読めないのは残念ですが、山崎さんが遺された名作の数々を、これから少しずつでも読んでいこうと思います。
☆4つ。