tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『とにかくうちに帰ります』津村記久子

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)


うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように、うちに帰りたい――。職場のおじさんに文房具を返してもらえない時。微妙な成績のフィギュアスケート選手を応援する時。そして、豪雨で交通手段を失った日、長い長い橋をわたって家に向かう時。それぞれの瞬間がはらむ悲哀と矜持、小さなぶつかり合いと結びつきを丹念に綴って、働き・悩み・歩き続ける人の共感を呼びさます六編。

初めて読む作家さんですが、とても面白かった!
まずタイトルがいいですね。
「うちに帰りたい」――誰もが一度は……いや、何度でも抱くだろう思いをそのままタイトルにしているこの分かりやすさ。
タイトルと同じく中身も強く共感を持てる作品が詰まった1冊でした。


特に大きな事件が起こるわけでもなく、ものすごく強烈な個性を持った人物が登場するわけでもなく、ただただ普通の勤め人たちの普通の日々を切り取っただけの物語なのですが、だからこそ惹きつけられます。
会社勤めの経験がある人なら、誰でも「分かる分かる!!」と思わず声を上げたくなるようなエピソードがひとつは登場するのではないでしょうか。
私にとってそれは、連作短編「職場の作法」の三話目、「ブラックホール」に描かれる、お気に入りの文房具がなくなるというエピソードでした。
共感どころか、私が以前の職場で経験したこととほとんど同じことが描かれていたので、なんだかおかしくて笑ってしまいました。
その文房具はもちろんひとりでにどこかへ消え去ったわけではなくて、持ち去った「犯人」がいるわけなのですが、その「犯人」はちょっと困った人ではあるのですが、悪人というわけではないのですよね。
文房具を持ち去ったのも、悪意があったわけではなくて、「ちょっと借りよう」という程度の軽い気持ち。
で、そのまま返すのを忘れて結果的に自分の持ち物にしちゃっているのがたちの悪いところなのですが、悪意がないと分かっているので取られた方も文句は言いづらいのです。
しかも相手はそれなりに年齢も立場も上の人だったりして。
私の場合は特に思い入れの少ない、なくなればまた買えばいいような安いもの(だからこそ持ち去った人も軽い気持ちで借りていったのでしょうが……)だったのでまだ許せますが、この作品の主人公の場合は、入社の記念に買った大切な万年筆です。
それを持ち去られたらさすがに悔しいし腹立たしいだろうと、同情せずにはいられません。
最終的に取り戻すことに成功した主人公に、拍手を送りたい気持ちになりました。
私の場合はというと、結局取り戻せずに、その後机の上に文房具を置かないように気を付けるようになりました。
こんなにもそっくりなエピソードが描かれるということは、きっとこういう困った人はどこの職場にでもいるということなんでしょうね。


その他にも、自分への仕事の頼み方がぞんざいだったり無茶振りだったりする人に対して、期限ぎりぎりにその仕事を仕上げるという形でささやかな抵抗を試みる女性の気持ちもとてもよく分かりました。
中にはあからさまに事務職の仕事を軽視したり見下したりする人もいますからね。
複数の人から仕事を頼まれた場合、そういう人からの依頼の優先順位を一番下にする、なんてことはきっと誰もがやった経験があるのではないでしょうか。
他にも無神経さがあだになって女性陣に嫌われた結果、雑務が片付かない部長(男性)が登場しますが、こうしたエピソードの数々に、働く女性は溜飲の下がる思いがすること間違いなしです。
女性作家だからこそ書ける職場小説ですが、男性も職場の女性たちが何を考えているか知るためにぜひ読んでほしいなぁと思いました。


表題作の「とにかくうちに帰ります」も、警報が出てバスや電車が止まるほどの大雨の中、必死に歩いて帰宅しようとする会社員の話、とまとめてしまえばただそれだけの話なのですが、細かい描写にいちいち共感を覚えます。
大雨が降ってるけどさてどうするか、という時の思考のめぐらせ方だとか、コンビニでの店員さんとのやりとりだとか。
なんだか小説を読んでいるという気がしないのです。
誰かの体験談を読んでいるような、いやいや、自分自身が今後同じような体験をしたとしてもおかしくないなというような、それくらいリアルで、ひとりひとりの登場人物がちゃんと「生きている」感じがします。
ひどい雨の中、傘やレインコートで防御していてもびしょ濡れになって、ただひたすら「うちに帰りたい」という一心で歩き続ける登場人物たちが、なんだか愛おしく感じられます。
「うちに帰りたい」は誰もが持つ思いだけれど、荒天の中困難を冒してでも帰りたい家があるというのは、その人がちゃんと地に足の着いた暮らしをしているという証でもあります。
日々、つらいことも腹立たしいことも悔しいこともある職場で、自分なりに懸命に働いてお金を稼いでいるからこそ、暖かくて安心できる帰るべき場所が維持できる。
作者から働く人たちへのエールが聞こえるような作品だと思いました。


登場人物たち、すなわち「普通の人々」と同じ目線で描かれた、読んでいて心地よい作品集でした。
さあ、明日も頑張って働こう、という気持ちになれます。
ボリュームが程よくて、すきま時間を使ってサクサク読める点も、働く人向けの1冊だと思います。
☆4つ。