tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『AX』伊坂幸太郎

AX アックス (角川文庫)

AX アックス (角川文庫)


「兜」は超一流の殺し屋だが、家では妻に頭が上がらない。一人息子の克巳もあきれるほどだ。兜がこの仕事を辞めたい、と考えはじめたのは、克巳が生まれた頃だった。引退に必要な金を稼ぐために仕方なく仕事を続けていたある日、爆弾職人を軽々と始末した兜は、意外な人物から襲撃を受ける。こんな物騒な仕事をしていることは、家族はもちろん、知らない。物語の新たな可能性を切り拓いた、エンタテインメント小説の最高峰!

グラスホッパー』『マリアビートル』に続く、伊坂さんの殺し屋シリーズ第三弾になります。
とはいえ、過去作とのストーリー的なつながりはあまりないので、本作から読み始めてもまったく問題ありません。
もちろん、シリーズ読者であれば、懐かしいキャラクターの名前が出てくるたびにうれしくなります。


今回の主人公は「兜」という名で殺し屋をしています。
けれども、それは裏の顔であり、表は文具メーカーで営業をやっている普通のお父さんです。
ところがひとつ普通でないところがあり、それは少々度が過ぎていると思われるほどの恐妻家であるということ。
妻の機嫌を損ねないことに命を懸けているといってもいいくらいで、そんなに気をつかわなくても……とあきれるというか笑えるというか。
別に横暴な奥さんというわけではなく、兜が一方的に奥さんに忖度していて、おそらく奥さんの方は旦那を尻に敷いているという自覚はないだろうなという点が余計に笑えます。
おそらくこれは兜にとっての愛情表現なんだろうなと思いました。
実際、奥さんへの愛情は年月を経て冷めるどころか深まっていると自分で言っていますし、夫婦関係は世間一般の他の夫婦と比べてもいい方でしょう。
殺し屋という殺伐とした裏稼業があるからこそ、表の顔である家庭では波風を立てたくない、平和に過ごしたいということならその心情は大いに理解できますし、兜の努力がいじらしくも思えてきます。
また、兜は有能な殺し屋ですが、実際のところは殺し屋から足を洗いたいと願っています。
でもなかなか辞めさせてもらえない、というところが気の毒で、殺し屋なのに同情し、感情移入してしまいます。
そのためか、今作は殺し屋が主人公でもあまり怖くない、それどころかほのぼのとしたところもあって楽しい物語という印象が強くなっています。


けれどもそこは伊坂作品、中盤の思わぬ急展開には驚かされました。
そこから終盤に向けて一気に伏線が回収されていく様は爽快としか言いようがありません。
兜のなにげない言葉も行動も、こんな細かいところにまで伏線が張りめぐらされていたのかと驚くばかりでした。
あるシーンなどは強烈な既視感を覚えて、思わずページをさかのぼってしまったほど。
この周到な伏線とその回収こそ、伊坂作品の醍醐味だなあと幸せな気持ちになりました。
兜本人がどこまで意図的だったかはわかりませんが、先々のことを考えて、まさに伏線を張るようにさまざまな「仕込み」をしていくあたり、やはり兜は殺し屋として非常に優秀だと思います。
また、その優秀さには、恐妻家であるということも少なからず関係していたのかもしれません。
妻の顔色をうかがい、妻との会話に細心の注意を払い、対応方法を常に頭の中で考えていて、瞬時にその方法を実践する。
兜が殺し屋の仕事を始めたのはかなり若い頃だったようですが、それでも殺し屋だから恐妻家になったわけではなく、恐妻家として得たスキル (?) が図らずも殺し屋の仕事にも応用されたのではないかという気がします。
そう考えるととても愉快な気持ちになって、ますます兜のことが好きになりました。


少し切ないけれど、ユーモアがあって笑える物語です。
過去2作はかなり暴力的な場面も多く殺伐とした雰囲気でしたが、今回は殺しの場面はもちろんあるものの、最初から最後までとても楽しく読み終えることができました。
殺し屋シリーズの中で一番好きです。
☆5つ。




●関連過去記事●
tonton.hatenablog.jp
tonton.hatenablog.jp