tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『片想い』東野圭吾

片想い (文春文庫)


600ページを越える長い物語にもかかわらず、実質4日ほどで読んでしまいました。
すごい作品だと思います。

帝都大アメフト部のOB西脇哲朗は、十年ぶりにかつての女子マネージャー日浦美月に再会し、ある「秘密」を告白される。
過ぎ去った青春の日々を裏切るまいとする仲間たちを描くミステリー。


性同一性障害半陰陽(遺伝子的には女性だが、男性と女性両方の性器を持つ人。いわゆる両性具有ですね)、いわゆる「オカマ・オナベ」、そしてもちろん「普通の」(とされる)男女まで、さまざまな人々が登場します。
主人公哲朗は体育会系で、かなり「男っぽい」タイプの男性だと言えます。
そんな彼が大学時代の女友達である美月に再会し、「彼女」から実は自分は身体は女だけれど心は男で、これからは男として生きていきたいと思っていることを告白され、大いに戸惑い、悩みながらも「彼女」を助け守るために奔走するのですが、その過程で美月と美月に関わる人々の思いがけない「秘密」が明らかになり、さらには哲朗や哲朗の妻・美沙子の隠された「秘密」も明らかになっていくという、ミステリとしても十分に楽しめる作品です。
同じ東野さんの『秘密』*1という有名な作品から派生した作品であるとも言えますので、ぜひこちらも読んでおかれることをお勧めします。


「ジェンダー」について、「性差別」について、私は分かったつもりでいました。
けれども、本当は全然分かっていなかった。
私はどうしても自分は「女性」であるという明確な意識を持って、「女性」の立場からそれらの問題を見ていたからです。
私も「女性」と「男性」とを分けて考えているという点では、差別をする側の人間となんら変わりがないのです。
誰でも一度くらいは「男の子なんだから泣いちゃダメ」とか「女の子なんだからお行儀よくしなさい」などと言われた経験があるのではないでしょうか。
あるいは親や学校に、知らないうちにランドセルや教材などの持ち物の色を男女別に決められていたというようなこともあったでしょう。
確かに「男」と「女」という2つのカテゴリーを作って、そのカテゴリーの中に全ての人間を当てはめてしまえば非常に楽なんです。
なかなか理解し合いづらい自分と異なる人間のことを、「男はこう」、「女はこう」とそのカテゴリーの中で説明できればとりあえず納得できるかもしれない。
でも、現実はそんなに簡単ではありません。
「性というものを超越したところにいる」半陰陽の存在や、肉体と心の性が食い違う人々の存在、また、同じ性に惹かれる人々の存在。
こうして男と女を区別することが、彼ら、彼女ら(この表現も2つの性にカテゴリー分けするという前提の元に成り立っているわけですが)性的マイノリティたちだけではなく、「普通の」男女をも苦しめているのかもしれないなと思いました。
例えば、飲み会などでは大抵男性の方が高い料金設定をされますが、全ての男性が女性よりもたくさんお金を稼ぎ、たくさん飲食するわけではないでしょう。
カテゴリー分けから外れることになるのが怖くて言い出せないけれど、実は仕事よりも家事や育児の方が好きだし自分に向いていると感じる男性も想像以上に多いのではないでしょうか。
もちろんその逆もまた然りです。
この作品中で、「男性と女性は同じメビウスの輪の反対側にいるのだ」という表現が出てきますが、目からうろこが落ちる思いでした。
全くその通りだと思います。
だから一方が一方を差別すると、結局それはメビウスの輪をめぐりめぐって、自分への差別となって返ってくるのです。
男性による差別で女性が社会に出て働くことが難しい世の中だから、その分男性が毎日深夜まで働かなければならなかったり、自分の子どもの一番かわいい時期を育てる喜びを女性に独占されなければならなかったりするのです。


それでも「差別をなくしましょう、性で人間をカテゴリー分けするのはやめましょう」と簡単に言えないし言ったところで何の解決にもならないというのがジェンダー問題の一番難しいところですね。
長々と書いてしまいましたが、こんなにもたくさんのことを考えさせてくれる作品に出会えて本当にうれしいです。
もちろんミステリとしても、過ぎ去った青春と友情の物語としても非常に面白いですよ。
難点を言えば、ある重要人物が○○○○を○○○にそのまま○○○(伏せ字だらけですが読んだ人なら分かると思います)なんて軽率なことをするかなぁ?それ以外の部分では過剰なほどに注意深いのに…というところが気にはなりましたが、そんな欠点もかすんでしまうほど深いものを持った作品です。

*1:ISBN:4167110067