tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『罪の轍』奥田英朗


昭和三十八年十月、東京浅草で男児誘拐事件が発生。日本は震撼した。警視庁捜査一課の若手刑事、落合昌夫は、近隣に現れた北国訛りの青年が気になって仕方なかった。一刻も早い解決を目指す警察はやがて致命的な失態を演じる。憔悴する父母。公開された肉声。鉄道に残された〝鍵〟。凍りつくような孤独と逮捕にかける熱情が青い火花を散らす──。ミステリ史にその名を刻む、犯罪・捜査小説。

久しぶりの奥田英朗さん。
ユーモアあふれる作品も書かれていますが、今回はミステリです。
といっても謎解きを主眼としているわけではなく、社会派警察小説といった感じでしょうか。
戦後の日本社会の描写も興味深く、非常に読みどころの多い作品でした。


戦後復興が進み、東京オリンピックを1年後に控えた北海道と東京が舞台です。
礼文島で漁師見習いをしている宇野寛治は窃盗で少年刑務所に入っていた経歴があり、成人してからも空き巣で金を稼いでいました。
宇野はある事件をきっかけに礼文島を出て東京へやってきます。
その後、浅草で小学1年生の男児が誘拐される事件が発生しますが、警察は身代金の受け渡し時の犯人確保に失敗、警察への非難が殺到する中、捜査本部の刑事・落合昌夫は浅草近辺で起きた複数の空き巣事件とある殺人事件に注目し、そこから宇野の存在にたどりついて彼を追っていくことになります。
警察小説としては少しずつ誘拐事件の犯人に迫っていく過程が面白いです。
今でこそ電話の逆探知など当たり前になり、それどころかさまざまなデジタル技術を使った捜査もできるのですからもはや誘拐事件など現実的ではなくなっていますが、当時はまだ電話自体が一般家庭にはあまり普及していなかった頃で、警察もあまり電話に関する知識がありません。
警察のヘマっぷりが少々間抜けに感じられますが、当時の時代背景を考えると仕方がないのかもしれず、むしろ今のような便利な技術がない中で自分たちの足と頭を駆使して犯人に肉薄していく刑事たちの姿に心躍らされました。
容疑者をついに逮捕し、完落ちを目指してじっくり取り調べを進める様子も、ラストの捕物劇もドキドキハラハラもので、800ページを超える長編でありながら一気に読まされます。


けれども、読み終えてみるとなんとも言えないやるせなさが漂う、あまり後味がいいとはいえない読後感が印象的でした。
宇野はいくつもの犯罪を重ねていて、やったことだけを純粋に見ると、凶悪犯といっていい人物です。
ただ、犯罪そのものには嫌悪感を抱くものの、宇野を完全に極悪人だと断罪することには抵抗があります。
宇野には記憶障害があるのですが、それは父親からの虐待が原因となって生じたものでした。
その障害のせいでいじめられ、貧困にも苦しむなど、不遇の子ども時代を送ったことについては同情を禁じ得ません。
とはいえもちろん、不遇の生い立ちが犯罪を重ねてもいい理由にはならないでしょう。
それでも、空き巣を超えるような重い罪を宇野が犯すことは、もしかしたら避けられる可能性もあったのではないかと思えるのです。
当時はまだ障害者に対する理解も支援も今ほど十分ではなかったでしょう。
社会全体がまだまだ貧しかった時代において、貧困者に対する支援も少なく、犯罪者を更生させるのは難しかったかもしれない。
でも、宇野の周りにもう少し、彼にあたたかい手を差しのべる人たちがいたなら、この物語の結末は違ったものになっていたかもしれません。
警察に逮捕されて、刑事たちが取り調べで自分の話を聞いてくれるのがうれしいという宇野に、胸が痛みました。


貧困、虐待、障害といった不遇に苦しむ人への支援の大切さ、福祉の重要性を改めて考えさせられる物語でした。
一方で警察小説としてはエンターテインメント性も高く、重くなりすぎない絶妙のバランスと読み応えにはさすがのひとこと。
小説ってやっぱり楽しいなと思わせてくれる作品でした。
☆4つ。