tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『人魚の眠る家』東野圭吾

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)


「娘の小学校受験が終わったら離婚する」。そう約束していた播磨和昌と薫子に突然の悲報が届く。娘がプールで溺れた―。病院で彼等を待っていたのは、“おそらく脳死”という残酷な現実。一旦は受け入れた二人だったが、娘との別れの直前に翻意。医師も驚く方法で娘との生活を続けることを決意する。狂気とも言える薫子の愛に周囲は翻弄されていく。

あらすじを読むとミステリなのかとも思えますが、実際はほとんどミステリ要素はありません。
東野さんのいつもの「理系ミステリ」からミステリを引いた感じでしょうか。
今回の理系要素は、脳死と臓器移植です。
「死」の定義について、深く考えさせられました。


プールでの事故により運び込まれた病院で、「おそらく脳死」であると医師に宣告された5歳の瑞穂。
医師に臓器提供の意思を問われた両親は、一度はそれを受け入れようとしますが、瑞穂が手を動かしたように夫婦ともに感じたことから、「娘は生きている」と脳死判定を受けることをやめ、彼女を「生かし続ける」道を選びます。
おそらく脳死だと診断された状態の子どもを生かし続けるということが、実際に医学的に可能なのかは、私には知識がなくよく分かりません。
ですが、心臓がまだ動いている状態の人間を「死んでいる」とすることを受け入れられない人の気持ちはよく分かります。
幼い子どもがそうなったなら、なおさら。
なんとしてでも生かしたい、まだ死なせたくない、と思うのは、親御さんなら当然のことだと思います。
けれども、脳の機能が停止していて、意思疎通はもちろんのこと、自分で食事することも呼吸することも身体を動かすこともできない子どもを、「死んだと認めたくない」という親の想いのみで、人工的な手段により無理やり生かし続けることが正しいことなのかと問われると、うーんと考え込んでしまいます。
「心臓が動かない」というのはシンプルな「死」の定義ですが、医療技術が発達して「心臓を動かし続けること」が可能になると、その定義にこだわることに支障が出てきます。
「生きている」というのは、単に「心臓が動いている」ということだけではなく、人としての活動ができるということも含まれるのではないかと思うのです。
だからといって本作で瑞穂を生かし続けるという選択をした両親を「間違っている」とも思えず、なんとも難しい問題だなと頭を抱えるばかりでした。


そして、人が「脳死状態」だと確定診断を受けることは、臓器提供をするかしないかという問題につながってきます。
本書の中で指摘されている通り、幼い子どもの臓器提供は日本では件数が非常に少なく、臓器移植を必要としている子どもたちは海外へ渡って移植を受けなければならないという状況が、臓器移植法の成立後も続いています。
このことに関しても、なんとも難しい問題だ、というのが正直な思いです。
臓器移植が必要な子どもを助けてあげたいという気持ちはもちろんあります。
けれども小さな子どもに、事前に臓器提供の意思の有無を確認しておくことなど不可能ですし、突然の子どもの脳死という悲劇に見舞われた親に、ゆっくり悲しむ間もなく臓器提供するかどうかの選択を迫るというのもなかなか酷な話です。
自分の子どもの臓器が他の誰かのものとなって生き続けるということを、すんなりと受け入れられない親もいるでしょう。
時間が経てば「いいことをした」と納得できるかもしれませんが、脳死直後にそう思えるかは人それぞれだと思います。
その人それぞれの考え方や感じ方に、他者が正しいとか間違っているとかいうことはできませんし、するべきではないでしょう。
でも、それでは一刻も早く臓器移植が必要で、臓器提供を一日千秋の思いで待ち続けている人たちは、どうやったら救えるのか。
重い問いに胸が苦しくなりますが、きっとひとりひとりが考え続けることが大事なんだろうなと、本作を読んで思いました。


娘の瑞穂を生かし続けるという選択自体は責められないけれど、母親の薫子には多少狂気じみた部分も感じられて、完全に共感するというわけにはいきませんでした。
それでも、薫子の母としての娘への想いは、胸を打たれるものでした。
プロローグとエピローグのつながりもきれいで、気持ちのよい読後感を味わうことができました。
☆4つ。