tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『螢坂』北森鴻

螢坂 (講談社文庫)

螢坂 (講談社文庫)


「この街で、オレを待ってくれる人はもう誰もいない」戦場カメラマンを目指すため、恋人・奈津実と別れた螢坂。16年ぶりに戻ってきた有坂祐二は、その近くのビアバー「香菜里屋」に立ち寄ったことで、奈津実の秘められた思いを知ることになる(表題作)。マスター・工藤が、客にまつわる謎を解き明かす第3弾。

大好きな「ビアバー・香菜里屋」シリーズ3作目。
まさにこの季節にぴったりな、おいしそうでちょっと切なくほろ苦い5つの謎解き物語が収められた連作短編集です。


このシリーズ最大の魅力である、ビアバー・香菜里屋の繊細で工夫を凝らされた食欲をそそる料理の数々と、アルコール度数の異なる4種類のビール、それにマスター・工藤のさりげなくおしつけがましくない心配りの数々は、やはり今作でも健在でした。
特に料理の描写は本当に思わず舌なめずりしてしまいそうなほどにおいしそうで、とても魅力的です。
作者の北森さんは調理師免許を持っているとのことですし、きっとご自分でもいろいろ工夫した料理を作られるんでしょうけれど、料理の腕前や知識を持っていることと、料理のおいしさを文字で伝えることとは全くの別問題。
味覚のような感覚をうまく文章で表現できる作家さんに出会うと、もうそれだけでうれしくなってしまいます。
出てくる料理の数々も身近な食材からちょっと珍しい食材までさまざまなものを使い、和食からイタリアンまでなんでもござれ。
秋という、この食欲が高まる季節でなくとも、この作品を読むと食欲が大いに刺激されるであろうことは間違いありません。
もちろんビアバーですからビールもおいしそう。
ビールは飲めますがそれほど好きではない私でも、この店のビールは飲んでみたいなぁと思わされます。
アルコール度数12度で、通常ロックで供される褐色のビールってどんなのだろう?
想像力が膨らみます。
こうしたおいしそうな酒肴やビールを客の飲むペースや会話の盛り上がり具合を見て絶妙のタイミングで出してくれる工藤の人柄も魅力的で、こんなビアバーが近くにあればいいのに…と思わずにはいられません。


もちろん謎解きの方の面白さも忘れてはいけません。
基本的に北森さんの書く謎はシンプルですが、叙情的でビールの泡のようにほろ苦くてはかない文章とストーリーで読ませます。
シリーズも3作目となり、マスター・工藤に加えて店の常連客たちもおなじみの登場人物としてそれぞれの物語を彩り、1作目と比べるとずいぶん作者の筆も滑らかになっているように感じます。
今回特に気に入ったのは最後の2作、「双貌」と「孤拳」です。
「双貌」は凝った構成と意外な展開でミステリとして純粋に面白く、「孤拳」はなんとも言えない切なさと若くして死んでいった1人の男の深く優しい想いが心に染みました。
また、「雪待人」のラストではこれまでほとんど謎だった工藤の私生活(というか過去)らしきものをほのめかしており、続編への期待を大いに高めてくれました。
どうやらこのシリーズも次に出る4作目で完結となるようです。
どんな結末を見せてくれるのか…今から楽しみでなりません。
☆4つ。