tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『悟浄出立』万城目学

悟浄出立 (新潮文庫 ま 48-1)

悟浄出立 (新潮文庫 ま 48-1)


おまえを主人公にしてやろうか! これこそ、万城目学がずっと描きたかった物語――。勇猛な悟空や向こう見ずの八戒の陰に隠れ、力なき傍観者となり果てた身を恥じる悟浄。ともに妖魔に捕えられた日、悟浄は「何も行動せず、何も発言せず」の自分を打ち破るかのように、長らく抱いてきた疑問を八戒に投げかけた……。中国古典の世界を縦横無尽に跳び、人生で最も強烈な“一瞬”を照らす五編。

Amazonではこの本、「中国文学」のカテゴリーに分類されていました(笑)
さすがにそれはちょっと違うような……。
正しくは、『西遊記』『三国志』『史記』などの中国の代表的な古典や歴史書に題材を取った小説が五編収録されている短編集です。
万城目さんといえばファンタジーというイメージもありますが、本作では中国古典の世界に生きる人間を真面目に描いています。
日本の歴史だけではなく中国の歴史にも疎い私、『西遊記』はともかくとして、『三国志』や『史記』の世界についていけるのだろうかと不安でしたが、万城目さん自身が巻末で丁寧に各話の解説をしてくれているおかげで、意外にもすんなりと物語に入っていくことができました。


作者自身の解説により基本的な知識を手っ取り早く得ることができてよかったのは確かですが、実際のところ本書に収録されている物語はどれも知識を要求されるようなものではありません。
というのも、あくまでも主眼は「原典の主要人物の人となりを、その周囲にいる誰かの視点から描くこと」であって、時代や国が違っていても、人間の本質は変わらず、従って人間が繰り広げるドラマの本質も変わらないからです。
人物名程度の本当に最低限の知識だけでも、物語としての面白さが損なわれることはなく、十分に楽しめるのではないかと思います。
ちなみに「原典に登場するある人物を他の人物の視点から描く小説」というのは、『山月記』や『李陵』などで有名な中島敦さんによる、『西遊記』を題材にした作品で使われているスタイルなのだそうです。
高校生だった万城目さんが、テストの問題でこの作品に出会い、大いに刺激を受けて小説を書き始めるきっかけにもなったそうで、この短編集はまさに万城目さんが長年書きたいと願ってやまなかった、思い入れの深い作品なのだと分かります。
中島敦さんといえば私は中学の教科書に載っていた『山月記』しか読んだことがないのですが、確かに『山月記』と似た雰囲気がこの短編集にはありました。
おそらく漢文調の文体が似ているのでしょう。
万城目さんの他の作品の文章とは少し異なる硬めの文体ですが、読みにくいということは全くなく、物語の雰囲気に合っていてよかったです。


五編の収録作品のうち、個人的に一番いいなと思ったのは「虞姫寂静 (ぐきじゃくじょう)」でした。
虞美人草という花にその名を残す、項羽の寵姫「虞」が主人公の話で、『史記』を原典としています。
万城目さんも解説で触れられていますが、登場人物が男ばかりという中国の歴史書に登場する数少ない女性の視点で描かれているところに新鮮味がありました。
ただの使い女から項羽の寵姫となった虞が、自分が項羽に愛された理由を知るくだりはなんとも切なく、また、最後の戦いに挑む決意を固めた項羽に対する虞の想いと彼女自身の強さが美しく印象に残りました。
時代も国も違っても、女性として共感できる虞の心理描写がよかったです。
次点は「父司馬遷」。
タイトルの通り、司馬遷の娘の視点から『史記』を著した司馬遷という歴史家を見つめた作品です。
武帝の怒りを買った李陵を擁護したことにより、宮刑に処せられて、男ではなくなって人間性までも変わってしまったかに見える父の姿に戸惑う娘の心情描写が見事でした。
宮刑などという今は存在しない (アメリカでは性犯罪者に対して行われることもあるらしいですが) 刑を受けた人などもちろん万城目さんも見たことがないはずなのに、まるで見てきたかのような現実感を持って描写する万城目さんの想像力には感嘆するほかありません。
この想像力があるからこそ『鴨川ホルモー』や『プリンセス・トヨトミ』のような現実とファンタジーが入り混じった作品が生まれたんだな、と深く納得する思いでした。


他の収録作品も全部面白く読みました。
表題作の「悟浄出立」では、『西遊記』は日本のドラマなどでしか知らないために「悟浄=河童」というイメージしかなかった私の思い込みを正してくれました。
確かに河童は日本の妖怪ですから『西遊記』に出てくるのはおかしいですね……。
そんなふうに本作を通じて新たに知ったこともあり、物語を楽しむだけでなく、少しだけ中国古典に親しみを持てた気がします。
本作が書かれるきっかけとなった中島敦さんの短編は青空文庫にあるようなので、読んでみようと思います。
☆4つ。

『貘の檻』道尾秀介

貘の檻 (新潮文庫)

貘の檻 (新潮文庫)


1年前に離婚した大槇辰男は、息子・俊也との面会の帰り、かつて故郷のO村に住んでいた曾木美禰子を駅で見かける。32年前、父に殺されたはずの女が、なぜ―。だが次の瞬間、彼女は電車に撥ねられ、命を落とす。辰男は俊也を連れてO村を訪れることを決意。しかしその夜、最初の悪夢が…。薬物、写真、地下水路。昏い迷宮を彷徨い辿り着く、驚愕のラスト。道尾史上最驚の長編ミステリー!

最近はユーモアものや非ミステリの作品も増えてきた道尾秀介さんですが、本作は長編でがっつりミステリです。
なんだか長編のシリアスミステリは道尾さんの作品に限らずとも久しぶりに読んだ気がします。
やはり読み応えの面では長編で重たい内容のものが満足度は高いですね。
結末が気になってどんどん先へ先へと読み進めていけました。


この作品は、今よりも30年以上前、ファミコンが発売された頃の日本の農村を舞台としています。
その時代のことを知っている人にとっては懐かしさが感じられるかもしれませんし、若い人には新鮮味があるのではないかと思います。
さらに都会育ちの人か、田舎育ちの人かによっても物語から受ける印象は変わってきそうです。
私はというとその頃の記憶は多少はあるけれども、社会の空気感や世情についてはよく分からず、都会育ちなので農村の雰囲気もよく知らない、ということで、本作から親近感や共感を得ることは難しかったですが、それでもなんとなく懐かしいような感覚がありました。
そして作中でたびたび語られる主人公の大槙の過去の記憶と夢は、さらに32年前、つまり現在より60年以上前にさかのぼります。
そうなるともはや私にとっては昔ばなしに近いレベル。
同じ日本が舞台なのに、異世界感もあるという不思議な感覚の中、大槙を苦しめる謎の悪夢がさらに物語に面妖さをもたらしています。
何を意味しているのかはっきりとは分からない、ひたすら怪しさや不気味さをはらんだその夢が、大槙だけではなく読者の不安をもかきたて、それは大槙の病気や精神的な不安定さとあいまって、光の乏しい水の中を泳いでいるような息苦しい気持ちにすらなりました。
悪夢の意味は少しずつ明らかになってはいきますが、全てが完全に解明されるわけではありません。
そのため、息苦しさはほぼ物語の最後まで続きます。
全く救いがないわけではないのですが、最後まで重苦しい雰囲気なのは好みが分かれそうなところです。


ミステリとしては、過去に起こった殺人事件と、現在 (といっても現代よりは30年以上前) のパートで起こる大槙の息子の誘拐事件というふたつの謎が絡んでいきます。
過去に起こった事件では大槙の父親が犯人だとされており、父と被害者になった女性との奇妙な関係を子ども時代に目撃したことが、大槙にとってトラウマとなり、大槙を苦しめる悪夢もそれが原因です。
過去の事件についても現在の事件についても、少しずつ真相が明らかになっていくにつれて、事件の関係者たちの間でどうしようもない行き違いやすれ違いがあったことが分かり、なんとも言えないやりきれなさが抑えられませんでした。
ほんの少し、何か別のきっかけがあれば事件は起こらなかったのかもしれない、そうすれば大槙が苦しむこともなかったのかもしれないと思うと、悲しいような悔しいような気持ちが沸き上がってきます。
前述のとおり最後まで重苦しい雰囲気が続く物語ですが、それでも結末が最悪のものでなかっただけでもよかったのかもしれません。
ほんの少しの光でも、大槙がそれをきっかけとしてまたなんとか立ち上がって歩いて行けるといいなと思います。


終盤の展開には意外性もあり、ミステリとしては悪くないと思いました。
もう少しカタルシスと救いのある話が読みたかったなという気持ちも否めませんが、ちょっと昔の推理小説を読んでいるような感覚はなかなか面白いものでした。
道尾さんは雰囲気作りが細部まで徹底していて巧いなと思います。
☆4つ。

2月の注目文庫化情報


今月はついに「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズ最新刊にして最終巻が発売です。
ずっと楽しみに待っていたので、早く読むために積読も解消しなければ!
――とはいうものの、今月は他の文庫新刊も魅力的なんですよねぇ……。
話題の芥川賞受賞作『火花』もぜひ読みたいし、「成風堂書店」シリーズも好きなので、2月は充実した読書生活が送れそうです。
年度末の慌ただしさも近づいてきますが、そういう時こそ趣味の時間もしっかり確保したい。
体調にも気をつけて充実した毎日を送りたいと思います。