tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『鷺と雪』北村薫

鷺と雪 (文春文庫)

鷺と雪 (文春文庫)


昭和十一年二月、運命の偶然が導く切なくて劇的な物語の幕切れ「鷺と雪」ほか、華族主人の失踪の謎を解く「不在の父」、補導され口をつぐむ良家の少年は夜中の上野で何をしたのかを探る「獅子と地下鉄」の三篇を収録した、昭和初期の上流階級を描くミステリ“ベッキーさん”シリーズ最終巻。第141回直木賞受賞作。

楽しみに読んできたベッキーさんシリーズもついに完結。
最後まで北村薫さんらしい物語のつむぎ方だったなぁと思います。
ひとつの物語が終わりを迎えるのは、最後までその物語を読めた喜びももちろんあるけれど、やっぱり少し寂しいものです。
このシリーズの終わり方は、なおさら。


何やら最近お嬢様と執事の登場するミステリが人気のようですが(私はそちらは未読)、このベッキーさんシリーズはお嬢様と運転手が登場する日常の謎ミステリです。
舞台は昭和初期、太平洋戦争開始前。
主人公の花村英子は士族出身の上流家庭に生まれ、皇族や華族の子女が大勢通う女学校(女子学習院ですね)で勉学中のお嬢様。
お嬢様らしく世間知らずでおっとりしているところもあるけれど、好奇心旺盛でさまざまな謎に立ち向かう。
そんな英子の専属運転手であり、ボディーガードであり、相談相手でもあるのが、当時にしては珍しい女性運転手の別宮(べっく)みつ子、通称ベッキーさん。
このベッキーさんが本当に素敵なのです。
車の運転はもちろん、武術もできて、文学や芸術への造詣も深くて、語学力もあって、というスーパーウーマンでありながら、決して出すぎることはなく、お嬢様の使用人としての立場もしっかりわきまえている。
とても頼りがいのあるお姉さんという感じで、私などは浮世離れした英子お嬢様よりもこのベッキーさんのほうに強く憧れてしまいます。
英子がうらやましいなぁ、と思わずにはいられません。


そんな素敵な運転手さんが活躍するミステリですが、謎解きはもちろん、戦争の足音が迫りくる昭和初期の帝都・東京を当時の空気感たっぷりに描いているところも魅力です。
シリーズは五・一五事件から始まりました。
そしてこの最終巻の最後の章で描かれるのは…。
これだけで勘のいい方なら分かってしまうかもしれませんね。
とても唐突に物語が急展開して、衝撃の事実が判明したところでブチッと、まるでドラマのクライマックスシーンでテレビが消えてしまったかのような終わり方をするので、読者としてはなんだかとり残されたような気持ちがしてしまいます。
でも、読み終わって少し時間が経つと、このシリーズの幕引きはこの終わり方でしかありえなかったと、そう思えました。
私たち後世を生きる人間は、この後の日本に何が起きるかを史実として知っている。
この先の英子やベッキーさんたちがどのような時代を生き、どんな出来事を経験していくのかが、大体想像できてしまう。
その時代背景を思えば、この先はのんきに日常の中の謎解きをしていられるような物語にはならないでしょう。
英子はこのラストの衝撃の出来事を経て、おそらくは娘時代を卒業して大人になっていくのでしょうし、ベッキーさんもまた、時代の空気を読むことのできる鋭い眼力を持った人であるだけに、つらい時期を生き抜いていかなければならなくなるはずです。
そう思うとなんとも切なくて悲しい気持ちにもなりましたが、シリーズ物としてうまいまとめ方だなぁと感心もしました。


巻末の参考資料一覧や、佳多山大地さんによる解説からは、北村さんがたくさんの資料にあたって、細部まで綿密に史実を調べあげた上で作られた物語だったのだということが分かり、改めて感心することしきりでした。
また、シリーズ通してたくさんの文学作品や作家の名が登場するのもよかったですね。
違う時代を生きる英子が私もよく知る作品や作家に馴れ親しんでいるのはなんだか不思議な感じもしましたが、後世に形が残る書物のよさを実感しました。
本当に北村さんらしい、美しくて切ないシリーズだったと思います。
☆4つ。