tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『 i 』西加奈子

i (ポプラ文庫)

i (ポプラ文庫)


「この世界にアイは存在しません。」入学式の翌日、数学教師は言った。ひとりだけ、え、と声を出した。ワイルド曽田アイ。その言葉は、アイに衝撃を与え、彼女の胸に居座り続けることになる、ある「奇跡」が起こるまでは…。西加奈子の渾身の「叫び」に心ゆさぶられる傑作長編。

西加奈子さんの作品では『サラバ!』に圧倒された印象が強く残っています。
本作も『サラバ!』によく似た読み心地で、テーマも似通っていると思います。
どちらもズバリ「自分探し」の物語なのだと感じました。


主人公のアイは、シリアで生まれ、アメリカ人男性と日本人女性の夫婦の養子になりました。
養父母が裕福なおかげでアイは何不自由なく育ちますが、彼女自身はそのことに引け目や罪悪感を感じながら生きていくことになります。
祖国であるシリアの情勢が決してよくない中で、自分は安全で平和な場所で優しい両親とともに豊かな生活を享受しているというその事実がアイを苦しめます。
はじめは特殊な事情を抱えるアイならではの苦悩のように思えていたのですが、読み進めるうち、これはアイに限った話ではなく、先進国に生まれ育った人間なら誰でも抱き得る悩みなのではと思えてきました。
アイは報道で知った世界中の戦争や紛争、事故や災害などで亡くなった人の数をノートに記録するという習慣を持っています。
物語の進行とともに列挙されていく数々のできごとはすべて現実に起こったことで、私も忘れているものもあれば強い印象とともに記憶に残っているものもありました。
テレビ画面に流れる遠く離れた地の悲惨な状況を眺めながら、おいしいものを食べたり、家族や友達としゃべったりしている。
そんな経験を、日本人なら多くの人がしたことがあるのではないでしょうか。
多少の罪悪感や居心地の悪さを感じながら、それでも自分は恵まれた自分の日常を変わりなく続けていく。
アイがこの物語の中で最後に目にして衝撃を受けることになる、とある報道写真は、私も確かに見た記憶があるものでした。
ああ、あれか……と思い出して悲しい気持ちになるも、それが私の日常を変えるかといったら、何も変わらないのです。
だからこそ、アイが幼いころから抱き続けた苦しみや気持ちは理解できますし、この物語のラストには私自身も救われた気分になりました。
被災地や戦地となった場所に住む人々を襲う悲劇に心を寄せることと、豊かさを享受し自分が幸せであろうとすることとは、両立する。
そしてそれは決して罪ではないし、そういうものなんだ、という作者の声が聞こえた気がしました。


作中に何度も何度も登場する、「この世界にアイは存在しません。」という言葉があります。
これはアイの高校の数学の先生による言葉で、数学の話なので「アイ」とは虚数の「 i 」のことなのですが、アイの頭の中でこの言葉はまるで呪文のように繰り返されます。
先生としてはそんなつもりではなかったとはいえ、なかなか罪作りな発言をしたものだなと思いますが、アイはこの言葉がきっかけで自らも数学の道に進むことになります。
虚数のi、アイという名前、そして英語の一人称である「 I」という3つの意味がかけられているわけですが、アイにとってはその3つともすべて自分のことを表しているものだと感じていたのではないかと思います。
自分とは何か、自分はなぜここに存在するのか、生きているのか。
やがてアイは「ユウ」という男性と運命的な出会いを果たし、ずっと胸に抱き続けた自らのアイデンティティに対する問いの答えを見出していきます。
「ユウ」という名前は明らかに英語の「you」を意識して、「I」と対になるようにつけられた名前ですが、「わたし」と「あなた」という、人間関係の最小単位がそろうことによってアイのアイデンティティが固まり始めるというのは面白いなと思いました。
友達は少ないアイですが、それでもユウと出会うまで人間関係と無縁だったわけではありません。
特に、高校で出会って大親友となるミナとの関係は、ユウとの関係よりも濃いものだと思います。
最初、アイとミナはレズビアン的な関係になるのかと思ったのですがそうではなくて (ミナは実際レズビアンなのですが)、同性愛よりもある意味もっと深く生々しくつながっているようなふたりの関係がうらやましく感じられました。
姉妹のようでもあり、恋人のようでもある、アイとミナの関係。
そしてアイに安らぎと愛情を与えてくれるユウとの関係。
人間というものは、他人との関係によって、自分の存在理由が定義されるんだなと思いました。


テーマとしては重く感じられる題材を、ユーモアも取り混ぜてさらりと読ませる西さんの作風と文体が好きです。
悲劇にあふれるこの世界をそう簡単に変えることはできないという諦観とともに、そこで生きていくための勇気と希望が、強く確かに感じられる作品でした。
☆5つ。




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