tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『あひる』今村夏子

あひる (角川文庫)

あひる (角川文庫)


我が家にあひるがやってきた。知人から頼まれて飼うことになったあひるの名前は「のりたま」。娘のわたしは、2階の部屋にこもって資格試験の勉強をしている。あひるが来てから、近所の子どもたちが頻繁に遊びにくるようになった。喜んだ両親は子どもたちをのりたまと遊ばせるだけでなく、客間で宿題をさせたり、お菓子をふるまったりするようになる。しかし、のりたまが体調を崩し、動物病院へ運ばれていくと子どもたちはぱったりとこなくなってしまった。2週間後、帰ってきたのりたまは、なぜか以前よりも小さくなっていて……。なにげない日常に潜む違和感と不安をユーモラスに切り取った、河合隼雄物語賞受賞作。

表題作の「あひる」をはじめ、短い作品が3篇収録されています。
ページ数が少なく、1ページあたりの文字数も少ないので、あっという間に読めてしまいますが、短い中にも読んだ者の胸に確実に何かを残す濃密さを秘めた、印象的な作品ばかりでした。


「あひる」は家で飼い始めたあひるが次第に体調を崩し、ある日動物病院へ連れて行かれ、帰ってきた時には明らかに体が小さくなっていた、という話で、これだけ読むとホラーのようですが、単純に別のあひるに替わっていたというだけの話です。
ただ、怖いのは、なぜ別のあひるが連れてこられたのかが書かれていないのではっきりしないということでしょう。
もちろん元のあひるは体調が悪化して死んだのだろうと推測はできますが、あひるを病院に連れて行った主人公の両親は、そのあひるがどうなったのかということには一切言及せず、まるであひるは入れ替わっておらず元のあひるが元気になって帰ってきたのだという態度なのです。
あひるは近所の子どもたちに愛されていたので、子どもたちへの配慮のためなのかとも思えますが、そこそこの年齢の大人だと思われる主人公にすら真実を明かさない理由がわかりません。
他にも断片的な情報しかなく詳しい事情や理由などがわからない部分があって、たとえば主人公は何の資格の勉強をしているのかよくわからなかったり、主人公の弟が暴力的なことに対して主人公家族がどう感じ、どう弟と接してきたのかがよくわからなかったりします。
その「わからなさ」がなんとも不穏で、不安で胸がかきたてられます。


他の2作品「おばあちゃんの家」「森の兄妹」は相互につながりのある物語です。
「おばあちゃんの家」に登場する「おばあちゃん」は認知症を発症し始めているのですが、主人公のみのりはおばあちゃんとの思い出を好意的に回想しています。
みのりはおばあちゃんが大好きだったと振り返っていて、語られるエピソードもおばあちゃんと子どものあたたかくほのぼのとした交流の様子なのですが、それでも文章のあちこちから不穏さが滲み出ているように感じられました。
姻戚関係ではあるものの誰とも血縁関係のない家族と同じ敷地内の家にひとりで住んでいるおばあちゃん、みのりの両親のおばあちゃんに対する態度、そうしたものが一見穏やかに見える家族の間に横たわる複雑な事情や心情を思わせて、やはり不安な気持ちにさせられる作品なのです。
森の兄妹」も同じく、兄妹のお母さんはシングルマザーのようだけれど、何の仕事をしているのか、お父さんはどうしているのか、何かの病気で定期的に病院で通っているけれどもその病気とは一体何なのか、となんだか謎だらけの人物です。
兄妹のうちの兄であるモリオの視点で描かれているので、モリオに見えている世界しか描写されていないから謎だらけになってしまうのでしょうが、謎というものは不安感を増大させるものだということを強く感じさせます。


シンプルで淡々とした文章の中に、「わからない」ということが生み出す不安や恐怖感が影を落とす、非常に強い印象を残す作品集でした。
目に見えているものがすべてではないと思わされる、読み手の想像力を問う物語だと思います。
☆4つ。