tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

2020年3月の注目文庫化情報


家にこもりがちな今日この頃、読書がはかどっているという人も多いのではないでしょうか。
本屋さんは盛況だという話がツイッターで流れてきて、喜ばしい話ではあるものの喜んでばかりもいられず複雑な気持ちです。
でも、そういうもやもやとした気分を晴らしてくれるのも読書の効用なんですよね。
相変わらず積読本の消化にいそしんでいる私ですが、今月は『魔王城殺人事件』が一番気になるかな。
歌野晶午さんの作品は好きなんですが、最近ご無沙汰なので、ぜひ読んでみたいと思います。
そうこうしているうちに、明るい春が来ますように。

『騙し絵の牙』塩田武士

騙し絵の牙 (角川文庫)

騙し絵の牙 (角川文庫)


出版大手「薫風社」で、カルチャー誌の編集長を務める速水輝也。笑顔とユーモア、ウィットに富んだ会話で周囲を魅了する男だ。ある夜、上司から廃刊の可能性を匂わされたことを機に組織に翻弄されていく。社内抗争、大物作家の大型連載、企業タイアップ…。飄々とした「笑顔」の裏で、次第に「別の顔」が浮かび上がり―。俳優・大泉洋を小説の主人公に「あてがき」し話題沸騰!2018年本屋大賞ランクイン作。

大泉洋さんを主人公にあて書きした作品だけあって、表紙も各章の扉も大泉さんのピンナップ尽くし。
あて書きされたのだから当たり前かもしれませんが主人公の速水にはついつい大泉さんの顔を重ねながら読んでしまいますし、大泉さんのファンの方にはたまらない作品なのではないでしょうか。
私はというと、大泉さんのことは特に好きでも嫌いでもないという中途半端な人間ですが (そもそもテレビドラマや邦画をあまり見ないので、俳優としての大泉さんの出演作品もほとんど知らないのです)、小説としてしっかりした読み応えがあり、もともと興味を持っている業界の話なので、十分楽しめました。


主人公の速水は大手出版社の雑誌「トリニティ」の編集長を務めています。
有名人の物まねが得意で、宴会や接待の席では率先して場を盛り上げる明るい人柄で、周囲からの評判も上々、部下たちからも慕われている。
速水流のユーモアあふれる会話や、大泉洋さんの姿で映像が脳内に再生されてしまう物まねシーンなど、ところどころで笑わされましたが、何しろ出版業界の話なので基本的に不景気な話ばかりで、速水の「陽」のイメージに反して物語全体の雰囲気はどちらかというと「陰」の部分が多いと感じました。
出版不況は今に始まったことではありませんが、業界の構造や仕組み、問題点などが丁寧に描かれていて、全く出版業界に接点がない人でも容易に現状をつかむことができるでしょう。
読めば読むほど打開策などないように思われて、本好きのひとりとしては暗澹たる気持ちにならざるを得ませんが、だからこそ小説への愛を貫き、小説を発表する場としての雑誌の存続に奔走する速水の姿が救いでした。
社内派閥や他業界とのタイアップなどは出版業界に限った話ではないので、私も会社員のひとりとして共感できるところも大いにありました。
大きな組織の中で自分の想いや理想を追求し実現する難しさは理解できますし、困難の中でも自分がやれることを精一杯やろうとあがく速水を、自然に応援したくなります。
こういう人ばかりなら出版業界も大丈夫なんじゃないかと、そんなに甘い話ではないとわかっていながらも、思わず考えてしまいました。


ところが、物語が終焉を迎えたと思った最終章の後、エピローグで大きく物語がひっくり返されたのには驚きました。
エピローグは普通、物語のクライマックスが過ぎて、余韻や後日談を楽しむパート、という認識だったので、まさかここにどんでん返しが仕掛けられているとは夢にも思いませんでした。
自分が見せられていたものは実は騙し絵だった、と気づいたときの衝撃は非常に大きかったです。
けれども不快感などはありませんでした。
読み終わって振り返ってみれば、あれもこれもそれも伏線だったのか、と感心するばかり。
案外こういう「陽」の印象が強い人の方が、二面性があるものかもしれないということには大いに納得できました。
なにより、速水は誰にも見せない側面を持ってはいたものの、行動には一貫性がある。
ゆるぎない信念と、目的に向かって突き進む行動力がある。
だからこそ、意外な結末もすんなりと腑に落ちました。


本作は最初から映像化を念頭に書かれたそうですが、計画通りに大泉さん主演で映画化され、2020年中に公開予定とのことです。
計画されていたからといっても、映画化となると多額のお金が必要になるわけで、そうそう簡単に実現するとも思えません。
それがちゃんと実現したということは、本作が優れた作品であるということの証でしょう。
厳しい業界で長年奮闘してきた人ならではのしたたかさも感じられる速水のキャラクターを大泉さんがどう演じるのか、見てみたいと思いました。
☆4つ。

『遠い唇』北村薫

遠い唇 (角川文庫)

遠い唇 (角川文庫)

  • 作者:北村 薫
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/11/21
  • メディア: 文庫


小さな謎は大切なことへの道しるべ。解いてみると一筋縄ではいかない人の心が照らし出される。学生時代に届いた想い出の葉書には、姉のように慕っていた先輩が遺した謎めいたアルファベットの羅列があった。数十年の時を経て読み解かれたとき、現れたものとは―。表題作のほか、宇宙人たちが日本の名著を読むユーモア作「解釈」、乱歩へのオマージュ「続・二銭銅貨」など、ミステリの名手が贈るバラエティに富んだ謎解き7篇。

北村薫さんは言わずと知れた日常ミステリの名手ですが、さらには短編の名手でもあると私は思っています。
短い中にも謎解きのエッセンスを濃密に閉じ込めて、人の心の機微も味わえ、深い余韻が楽しめる作品を数多く書かれています。
この短編集もまさにそんな作品を集めた珠玉の1冊でした。
文学の香りが漂う、知的でミステリへの愛がたっぷり詰まった北村ワールドを存分に楽しみました。
では各作品の感想を。


「遠い唇」
今回はこの表題作が一番のお気に入りになりました。
大学の先輩がくれた葉書に書かれていた暗号を、時が経った後に解いてみたところ、そこに現れた思わぬメッセージ。
なんとも切なくほろ苦い結末が素晴らしいです。
コーヒーが謎解きの鍵になるのですが、それもあって喫茶店で本格的なコーヒーを味わいながら読みたい作品だと思いました。
冒頭に引かれている中村草田男の俳句がまたいいですね。


「しりとり」
和菓子を使った暗号文が印象的です。
この暗号を作った病床の男性の、妻への想いが胸に沁みます。
この作品にも俳句が登場しますが、俳句と和菓子という組み合わせが切なく優しい物語の雰囲気にとても合っていて、北村さんのモチーフの使い方のうまさがよく表れている一作でした。


「パトラッシュ」
美術館に勤める若い女性の話で、タイトルの「パトラッシュ」は女性の恋人を指しています。
前の2編に比べると、ほのかな幸福感あふれる甘いラブストーリーで、謎解きもなんだか微笑ましい。
パトラッシュみたいな恋人いいなあと、主人公がうらやましくなりました。


「解釈」
地球の日本にやってきた宇宙人が、夏目漱石の『吾輩は猫である』、太宰治の『走れメロス』、川上弘美さんの『蛇を踏む』を読んで地球のことを知ろうとする話なのですが、どうも「小説」というものを理解していないらしい宇宙人たちの奇想天外な解釈に笑ってしまいました。
よくこんな「新解釈」を思いつくものだなぁと感心しきり。
和田誠さんの挿絵もいい味を出しています。


「続・二銭銅貨
こちらは江戸川乱歩の『二銭銅貨』の新解釈ですね。
二銭銅貨』を読んだことはあるのですが、細かいところは忘れてしまっていたので、手元に『二銭銅貨』も置いて読み比べてみた方がよかったなと思います。
作中の人物として登場する乱歩さんに、不思議な親しみを感じられました。


「ゴースト」
『八月の六日間』のスピンオフで、この作品だけは謎解きがありません。
謎解きはなくとも、冒頭に河野裕子さんの短歌が引用されていて、雰囲気的な面で他の作品から浮いているというようなことはなく、違和感なくこの短編集になじんでいると思いました。
主人公の朝美が仕事でやらかした、ちょっとした失敗、こういうことは社会人ならよくあるよねと共感もできますし、朝美の心情がよく伝わってくる一編でした。


「ビスケット」
なんと、『冬のオペラ』の続編です。
『冬のオペラ』なんて読んだのが遠い昔すぎてすっかり忘却の彼方で、ぼんやりと「どこかで聞いたことのある人名だな」ぐらいしか思えなかったのが悔しい。
もう一度『冬のオペラ』を読んでみなければと思いました。
日常ミステリの印象が強い北村さんには珍しい、殺人事件を扱うフーダニットミステリですが、ダイイングメッセージの謎解き自体はとても北村さんらしさが感じられるものでした。
NHKの犯人当て番組「探偵Xからの挑戦状!」シリーズの原作として書いた作品ということで、インターネットがある現代だからこそ誰でも名探偵になれるということを示したところも興味深いです。


7作品それぞれの味わいがあり、改めて謎解きの面白さを感じられる短編集でした。
難点は、あっという間に読み終わってしまって、もっと読みたいのに!と思ってしまったこと。
次の短編集の刊行を心待ちにしています。