tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『中野のお父さん』北村薫

中野のお父さん (文春文庫)

中野のお父さん (文春文庫)


若き体育会系文芸編集者の美希。ある日、新人賞の候補者に電話をかけたが、その人は応募していないという。何が起きたか見当もつかない美希が、高校教師の父親にこの謎を話すと…(「夢の風車」)。仕事に燃える娘と、抜群の知的推理力を誇る父が、出版界で起きる「日常の謎」に挑む新感覚名探偵シリーズ。

北村さんの「日常の謎」ミステリ新シリーズが開幕しました。
主人公は老舗出版社で文芸担当の編集者として働く若い女性・美希。
彼女が仕事をする中で遭遇する、ちょっとした謎を、話を聞いただけであっという間にするする解いてしまうのが、本作の探偵役「中野のお父さん」です。
「中野」というのは名字ではなくて地名の中野。
美希はすでに実家を離れて暮らしていて、何かあると実家のある中野に帰り、お父さんの知恵を借りるというわけです。


このお父さん、定年間近の高校の国語教師なのですが、正直なところ、ミステリの探偵役としては非常に地味。
同じ北村さんの作品と比べてみても、「円紫さんと私」シリーズの探偵役である円紫さんが人気落語家であり、華やかなスポットライトを浴びる存在であるのに対して、「中野のお父さん」は腹の出たおじさんで、華があるとは言い難いです。
とはいえ、博識ぶりや洞察力は決して円紫さんに劣ってはいません。
国語の先生ですから文学方面に明るいのはもちろんのこと、現場にいたわけでもないのに美希の話を聞いただけで、鮮やかに謎を解明してしまうひらめき力が際立っています。
言うまでもなく読書家で、家にはたくさんの本がありますが、美希に必要な本をすぐに持ってきて差し出すことから、記憶力がよく整理整頓も得意だと思われます。
こんな知的なお父さん、そりゃあ頼りたくもなるなぁと、美希がうらやましくなりました。


そんな知的な「中野のお父さん」の娘である美希は、出版社に就職したのはもちろんお父さんの影響あってこそだと思いますが、大学は文学部かと思いきや体育学部出身だというのが意表をついていて面白いです。
本作は連作短編集ですが、その中のいくつかでは、美希が体育会系であるという設定が活かされて、マラソン大会に参加する話や中学校のバスケットボール部のコーチを引き受ける話などが出てきます。
かと思えば北村さんらしい文学論的な話もあったりして、文化系と体育会系、静と動が入り混じった感じがとてもバランスがとれていて好印象でした。


バランスがいいと言えば、美希とお父さんの関係もそうですね。
これが高校生の娘と父親とかだったりすると、娘の方はまだまだ父に対する反発もありそうですが、美希はすでに社会人であり、実家を出ていることもあって、お父さんとは反発するでもなくべたべたするでもない、程よい距離感を保っています。
大人になったといっても、まだまだ若い美希に、いろいろ助言したり教えたりするお父さん。
きっとこれは、すべての「お父さん」にとって、娘との理想的な関係なのではないでしょうか。
娘が独立しても時々は実家に帰ってきてくれて、いろんな話をして、自分の知識と経験で娘を助け、導いて。
もしかすると、北村さん自身が「こういう父でありたい」という理想を投影したのが「中野のお父さん」なのかもしれない、と考えると微笑ましくて気持ちがなごみました。


収録されているどの短編も面白かったですが、一番気に入ったのは最後に収録されている「数の魔術」でした。
美希がコーチを務める中学校のバスケ部を勝たせるために取った意外な「作戦」に、感心しきり。
それから、人間の欲深さが垣間見える「茶の痕跡」も、ちょっとダークな読み心地が他の収録作とは違った雰囲気で楽しめました。
派手さはないけれど、北村さんらしさが存分に味わえる短編集で、ぜひシリーズ化してさらなる「中野のお父さん」の名推理を読ませてほしいと思います。
☆4つ。