tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『羊と鋼の森』宮下奈都

羊と鋼の森 (文春文庫)

羊と鋼の森 (文春文庫)


高校生の時、偶然ピアノ調律師の板鳥と出会って以来、調律に魅せられた外村は、念願の調律師として働き始める。ひたすら音と向き合い、人と向き合う外村。個性豊かな先輩たちや双子の姉妹に囲まれながら、調律の森へと深く分け入っていく―。一人の青年が成長する姿を温かく静謐な筆致で描いた感動作。

本屋大賞を受賞したり、キノベス1位になったりと、高く評価された作品です。
ベストセラーを嫌う向きもありますが、高評価だったり人気が高かったりする作品はやはり面白いんですよね。
本作もそんな期待を裏切らない素晴らしい作品でした。


主人公・外村は駆け出しのピアノ調律師
彼が先輩調律師やお客さんたちからさまざまな刺激を受けながら、一人前の調律師を目指してひたすら地道な努力を重ねていくという物語で、特に大きな事件や出来事が起こるわけではない、どちらかというとかなり地味な話です。
それでも非常に胸に響く物語で、最終盤は特に劇的な何かがあるわけでもないのに涙が出そうになりました。
文章は淡々としていて、感情が抑えられた、静かな雰囲気なのですが、それが意外にも読者であるこちらの想像力をかきたて、感情を揺さぶられたように思います。
上記に引用した紹介文の「静謐な筆致」というのがまさにそのとおりなのですが、静謐といっても全くの無音というわけではなく、外村が生まれ育った家の近くの森の木々や草むらが立てる音や、調律師たちが心を込めて調律したピアノの音色がひそやかに流れ込んでくるような、そんなイメージを抱かされる文体でした。
主人公の外村がまたそんな文体にぴったりの、落ち着いていて物静かな印象の青年で、器用ではなくとも誠実で真面目な人柄が文章を通じてまっすぐに伝わってきて、読み始めてすぐに好感を持つことができたのも、ピアノの調律という私にはなじみのない題材の物語にすんなり入りこむ助けになったと思います。


そのピアノの調律ですが、なんとも奥深い世界だなぁと、読みながら感心しっぱなしでした。
単に音程を合わせるだけではなく、「いい音」が鳴るようにしなければならないわけですが、そもそも「いい音」とは何なのかがはなはだ曖昧です。
人によってどんな音が心地よく感じられるかはそれぞれでしょうし、ピアノが弾かれる場所や環境も大いに影響してくるはずです。
そんな明確な答えのない問いに向かって、ひたすら努力と修練を積み重ねるしかない調律師という職業は、職人といっていい種類の仕事だなと思いました。
自分の実力のなさを自覚しながら、どんな調律をしたいのかも分からぬまま、悩んでもがいて、それでも少しずつ前進していく外村の姿は、駆け出しであってもやはり職人の雰囲気をまとっています。
それでいて、どんな分野であれ新人のうちは誰でも似たような道を通るのですから、普通のお仕事小説として若い頃の自分と重ねあわせて共感できるというのも本作の大きな魅力です。
調律師と客という関係で出会ったふたごの姉妹と外村が、ピアノを挟んで少しずつ親しくなっていき、お互いがお互いの成長するための刺激になっていく過程も非常にさわやかで、一種の青春小説としても読めます。
決してボリュームがあるわけではないのに、とても豊かな広がりを持つ物語だったのはうれしい予想外でした。


ひさしぶりに、とてもいいお話を読めたなぁと大きな満足感に浸ることができました。
あっという間に読んでしまって、もっとこの物語の世界の中にいたかったと残念に思ったくらいです。
慌ただしい毎日にそっと安らぎを与えてくれるような、気持ちのよい読書ができました。
☆5つ。