tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『春、戻る』瀬尾まいこ

春、戻る (集英社文庫)

春、戻る (集英社文庫)


結婚を控えたさくらの前に、兄を名乗る青年が突然現れた。どう見ても一回りは年下の彼は、さくらのことをよく知っている。どこか憎めない空気を持つその“おにいさん”は、結婚相手が実家で営む和菓子屋にも顔を出し、知らず知らずのうち生活に溶け込んでいく。彼は何者で目的は何なのか。何気ない日常の中からある記憶が呼び起こされて―。今を精一杯生きる全ての人に贈るハートフルストーリー。

瀬尾まいこさんの作品は無条件でめちゃくちゃ好き、というわけではないのですが、読むと「ああ、いいなあ」と思わせるものが全ての作品にあって、常に気になる作家さんです。
作品数は多くないですし、大長編やスケールが壮大な物語というのもなく、ごく日常的な題材を扱う穏やかで、地味ながらしみじみといい作品を丁寧に書かれています。


本作の主人公は36歳で元小学校教員という経歴を持つ女性、さくらです。
彼女は小さな和菓子屋を両親と共に営む山田さんという男性との結婚を控えています。
そのさくらの前にある日突然さくらの兄だという人物が現れます。
けれども彼はどう見てもさくらより年下で、さくらもさくらの家族も彼のことに心当たりがありません。
名前も住所も教えてくれない謎の「おにいさん」とさくらとの奇妙な交流が始まりますが――。


あらすじだけを見るとSFかファンタジーかミステリか、はたまたホラーか!?と思えますが、もちろんそんなことはありません。
やがて明らかになる「おにいさん」の正体は非常に常識的な範囲内に収まりますのでご心配なく。
その「おにいさん」がマイペースで自由奔放で口が悪くて、となかなか困った人物なのですが、悪い人ではなくさくらのことを本当に大切にしていて、さくらも困惑していたのが次第に「おにいさん」のペースに巻き込まれるうちに彼とのきょうだい関係を楽しむようになっていきます。
主人公がそんなだからか、読者もなんだか細かいことは気にならなくなってきて、この不思議な関係を受け入れようになるのが面白いところ。
それほど若くはないとはいえ、独身女性に本当かどうか分からない変なことを言ってつきまとう男性だなんて、普通に考えると怪しすぎるのですが、「おにいさん」に悪意がないことは伝わりますし、危険はなさそうだと分かればふたりの関係の謎を楽しむようにすらなってきます。


「おにいさん」を怪しんでいないのは、さくらの婚約者である山田さんも同じです。
自分の婚約者に変な男がくっついていたら面白くないのが当たり前で、怒っても仕方ないところですが、山田さんは疑いもなく自然に「おにいさん」を受け入れます。
その様子がとても余裕があり落ち着いていて、38歳という年齢のせいかもしれませんが、「大人の男」を感じさせます。
見た目は大柄でのっそりしていて決してイケメンではないようですが、その穏やかで包容力のある人柄に、確かに結婚するならこんな人がいいなと思わされました。
お見合いに近い形で出会い、恋人同士の熱い愛情で結ばれているわけではないさくらと山田さんですが、だからこそ結婚前から地に足の着いた現実的な関係があって、かといって冷たいわけでもなくあたたかいものが通い合うふたりなら、きっとよい夫婦になれるだろうと心がほっこりします。


「おにいさん」や山田さん、自分の家族や山田さんの両親など、周りの人々のあたたかさに包まれて、さくらがそれまで記憶から消していた過去の苦い経験と向き合うラストが優しく心に沁みました。
夢を叶えるということが、必ずしも幸せになるということにつながるとは限らない、むしろ夢を叶えたその先こそが本当の試練なのでしょう。
結婚も同じでそれはゴールではなくスタートに過ぎない。
結婚後、もしかしたら辛いことや悲しいこともあるかもしれません。
でも、さくらと山田さんなら何が起こってもちゃんとふたりで力を合わせて乗り越えていけるのではないかと思います。
読了後、タイトルに込められた作者の優しさを噛みしめてほろりとしました。
そう、春はやってくるのではなく、戻ってくるものなのでしょう。
何度でも、誰にでも。
この時期に読めてよかったと思える素敵な中編でした。
☆4つ。