tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『八月の六日間』北村薫

八月の六日間 (角川文庫)

八月の六日間 (角川文庫)


雑誌の副編集長をしている「わたし」。柄に合わない上司と部下の調整役、パートナーや友人との別れ…日々の出来事に心を擦り減らしていた時、山の魅力に出会った。四季折々の美しさ、恐ろしさ、人との一期一会。一人で黙々と足を動かす時間。山登りは、わたしの心を開いてくれる。そんなある日、わたしは思いがけない知らせを耳にして…。日常の困難と向き合う勇気をくれる、山と「わたし」の特別な数日間。

北村薫さんの書く文章、やっぱり好きだなぁ。
特に女性の一人称の語りをこんなにうまく書ける人は、男性作家では他に見当たらない気がします。
言葉の選び方や文章の流れがとても自然で、作者の存在が完全に消えているんですね。
主人公の女性が書いたエッセイを読んでいるような感覚で読ませるというのは、女性作家でもなかなか難しいことではないかと思います。


北村さんといえば日常系ミステリですが、本作はなんと山岳小説。
北村さんご自身は登山をされないそうなので、なんでまた?という感じですが、雑誌の編集者として働くアラフォー独身女性という主人公との相性がよかったのかなと思いました。
主人公は日々のもやもやを吹き飛ばすため、そして自分の内面と向き合うために、山へ登りに行きます。
それも、けっこう本格的な登山です。
時には道に迷ったり、天候が急変したり、体調が悪化したりといったトラブルに見舞われることもあります。
その道のりは決して甘くなく、自然の厳しさを思い知らされるものですが、それでも主人公は休暇を取って、嬉々として山へ出かけていきます。
もともと主人公はアウトドア派ではなく、荷物が増えることも厭わず文庫本を山にも持っていくほどの本の虫です。
身体を動かすことが好きでもないのに、なぜ登山なんて大変そうなことを?と疑問に思ってしまいますが、そこはやはり、ひとり黙々と自然の中を歩くことによって、嫌なことを忘れたりゆっくり物事を考えたりできるという利点が大変さを上回るのでしょう。
山の景色が素晴らしいのはもちろん、同じ山を登る魅力的な人たちとの一期一会が楽しそうです。
さらに、主人公が山で食べる食事やおやつがまたおいしそうで、歩き回って疲れた後のお風呂の心地よさもしっかり伝わってきます。
なるほど、登山ってなかなか魅力的な趣味なんだなぁというのがよく分かりました。


主人公の人柄を反映してか、文章はとても淡々としていて、起承転結の起伏には欠ける物語です。
それでも大きな出来事が何も起こらないかというとそうではなくて、昔からの友に死なれたり、元恋人が結婚したという話を聞いたり、と主人公の日常にはそれなりに大きな事件が起こっています。
けれどもそれらの事件は直接描写されることはなく、登山の合間に主人公の内面の描写がなされるだけです。
泣き叫びたい夜も、わめき出したい日も、きっとあったでしょうに、そうした激しく感情を表に出すような場面は登場しません。
それでも主人公の悲しみや心の痛みはしっかりと伝わってきます。
おそらくこの主人公は感情を露わにして発散させるタイプではなく、ぐっと心の奥底に閉じ込めるタイプの人なのでしょう。
でもそれでは精神のバランスが取れなくなるので、山に登ることでひとり静かにそっとそれらの感情を解放させるのだと思います。
とても大人で、かっこいい人だなと感じ入りました。
北村作品に登場する女性はみな経済的にも精神的にも自立していて、しっかり自分の考えを持っているところが素敵で、素直にお手本にしたいなと思えます。


登山の合間に主人公が読む本や文学の薀蓄が語られるのが、北村さんらしくてよかったです。
ついつい自分も登山にチャレンジしてみたいな、なんて思ってしまいますが、作中に登場する山は決して初心者向けではないそうなので、甘く見ると危険でしょうね。
この本を読んで登山をした気になるくらいがちょうどいいのかもしれません。
☆4つ。