tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『怒り』吉田修一

怒り(上) (中公文庫)

怒り(上) (中公文庫)

怒り(下) (中公文庫)

怒り(下) (中公文庫)


若い夫婦が自宅で惨殺され、現場には「怒」という血文字が残されていた。犯人は山神一也、二十七歳と判明するが、その行方は杳として知れず捜査は難航していた。そして事件から一年後の夏―。房総の港町で働く槇洋平・愛子親子、大手企業に勤めるゲイの藤田優馬、沖縄の離島で母と暮らす小宮山泉の前に、身元不詳の三人の男が現れた。

吉田修一さんは新聞連載を読んでいたことはありますが、こうして本にまとまった形で読むのは初めてです。
文章は無駄がなくて非常に読みやすく、複数の視点から描かれているため物語に立体感があり、ぐいぐい引き込まれました。


とある殺人事件の犯人が捕まらないまま1年が過ぎた頃、房総半島の海辺の町、東京、そして沖縄の小島の3か所に、身元不詳の3人の男が現れ、そこで出会った人たちとの交流が始まります。
その交流の中で新たな絆も芽生えていきますが、3人の男たちにはそれぞれ、逃走中の殺人犯との類似点がありました。
さて、誰が殺人犯・山神なのか、はたまたこの中に山神はいないのか?
――このようなミステリ的好奇心をそそる謎でぐいぐい興味を引っ張って、どんどん読ませる力を持った作品です。
登場人物たちが疑心暗鬼に陥っていく中、読者も同じように3人の男たちに次々疑いを抱き、やがて明らかになる真相に、人を信じることの難しさを思い知らされます。


港町で働く洋平・愛子の父娘、ゲイの優馬、高校生の泉と辰哉――メインの登場人物たちはみな、私とは立場も違い共通点もあまりないのですが、それでも不思議なくらい彼らの気持ちに共感できました。
おそらく、家族や友人や恋人といった大切な人に対する複雑な感情は、どんな人でも抱くものだからなのでしょう。
洋平は娘の愛子に対して、愛子は父の職場にある日ふらりと現れた青年・田代に対して、優馬はゲイの出会いの場で出会った直人に対して、泉と辰哉は無人島で出会った男・田中に対して。
大事に思うからこそ、相手のことを信じたいと思う。
でも、信じたいという気持ちが強ければ強いほど、却って疑ってしまうということは誰にでもあると思います。
その疑いによって、相手との関係が壊れてしまうこともあります。
本当はそんなことは望んでいなかったはずなのに。
中でも、洋平が愛子に対し、自分の娘でありながら「幸せになれないのではないか」と思ってしまい、それが身元のよく分からない田代への疑惑に結びつくという描写が、非常にリアルで生々しく感じました。
夫婦や恋人や友人といった関係より、親子の方がその信頼関係は強いのではないかと思いがちですが、血の繋がりがイコール絆だというわけではありません。
「あの人は信頼できる人だ」などと簡単に言ったりしますが、無条件に誰かを信じ抜くというのは、実はとてつもなく難しいことなのかもしれないと思わされます。


誰かを信じたいと思った人たちの、その苦しみと葛藤がとても胸に痛く感じられました。
でも、だからこそ、誰かを信じようとすること、そして守ろうとすることは、人を強くするのだという希望も感じられる物語でした。
沖縄の抱える問題や、同性愛者ならではの悩みなど、社会的なテーマが盛り込まれている点もよかったです。
☆4つ。