tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『野球の国のアリス』北村薫

野球の国のアリス (講談社文庫)

野球の国のアリス (講談社文庫)


春風に誘われたような気まぐれから、アリスは新聞記者の宇佐木さんのあとを追い、時計屋の鏡の中に入ってしまった。その日は夏休みの「全国中学野球大会最終戦」の前日。少年野球のエースだった彼女は、負け進んだチーム同士が戦う奇妙な大会で急遽投げることになる。美しい季節に刻まれた大切な記憶の物語。

これも『子どもの王様』同様、「講談社ミステリーランド」の1冊。
『子どもの王様』とはまた違った方向性で、北村さんが子どもたちに伝えたいことが詰まっています。
ミステリというよりはファンタジーなので、本格ミステリや日常ミステリを期待して読むと肩透かし感が強いかと思いますが、個人的にはとても好きな雰囲気の作品でした。


少年野球チームのエースとして活躍していたアリスという女の子が、小学校を卒業して中学入学を控えた春休みに、ウサギならぬ、「宇佐木さん」を追いかけて鏡の中に入り込むところから物語が展開します。
そう、タイトルから想像できる通り、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』をモチーフとしているのです。
鏡の向こうの世界では、すべてが左右反転しています。
そして、そこでは奇妙な野球大会が行われていました。
トーナメントは普通勝ち抜き戦であるものですが、なんとその大会では逆に「負け進む」、つまり最弱のチームを決めるような試合があり、しかもその最終戦はテレビ中継されて、弱いチーム同士の普通ではありえないエラーや珍プレーをあざ笑って楽しむという悪趣味なイベントになっているというのです。
当然不快感を覚えたアリスは、自分が進学する予定の中学校の野球部がその最終戦に出場することを知り、急きょエースとして登板することにします。


さすが北村さん、何とも設定がうまいですね。
弱者や敗者を見世物にし、笑いものにするということが、この世界に全くないかというと、残念ながらあるというのが実際のところでしょう。
それを不愉快に思ったり苦々しく思ったりする人もいないわけではないはずですが、この作品の鏡の世界のように、まるでそれが当たり前のようにテレビ放映などされていると、「長いものには巻かれろ」とか「波風立てるな」の意識が働いて、疑問の声が上がらないまま続いて行ったりします。
パラレルワールドから来た「よそ者」だからこそとはいえ、そこではっきり「それはおかしい」と意思表示できるアリスがかっこいい。
アリスの呼びかけに応じて一緒に試合に出てくれる、アリスの女房役キャッチャーの兵頭君や、アリスのライバルで才能あふれる強打者・五堂君の言動からも、野球をこよなく愛する気持ちが伝わってきて、アリスは本当にいい環境で野球をやってきたんだなというのがよく分かりあたたかい気持ちになります。


けれども、一方でアリスの複雑な胸の内も描かれます。
特にアリスが五堂に対して、「男の体になっていくなんてずるい」と思う箇所にはハッとさせられました。
私は運動が苦手でスポーツはやっていなかったのであまり強く意識したことがありませんでしたが、小学校高学年から中学生にかけての子どもたちというのはちょうど男女の性差がはっきりと表れてくる時期なんですよね。
小学校時代は男の子たちと一緒に少年野球チームで活躍していたアリスにとって、自分が女だというだけでかつてのチームメイトやライバルたちに敵わなくなっていくというのは、どれほど悔しいことでしょうか。
五堂などは小学生にしてすでに大物の風格を漂わせる名選手ですから、今後中学、高校と進学して、甲子園を目指して、その先はプロへ――という将来がある程度見えています。
けれどもアリスは女だから、どう頑張っても五堂と同じ道を歩むことはできません。
ただ、そんなある意味理不尽な運命に腐ることなく、「どうしようもないこと」と受け入れつつ前を見ようとするアリスがやっぱりかっこよくていいなぁと思います。
それに加えて、五堂がそんなアリスの気持ちを理解していて、しっかり配慮ができることがまた素晴らしい。
小学校を卒業したばかりの男子としてはちょっとできすぎな感じもしますが、そこに作者の子どもたちへのメッセージが込められているのではないかと思います。
女の子の読者には、「ちゃんとわかってる人もいるよ」と。
男の子の読者には、「女の子には優しくしてね」と。


ミステリ度は低めでも、ストーリーがとても満足できる作品でした。
何よりスカッと気持ちのいい読後感がよかったです。
中学校という新しい世界へ向けて一歩を踏み出し始めるアリスたちに、心からのエールを送りたくなりました。
☆4つ。