tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『微笑む人』貫井徳郎


エリート銀行員の仁藤俊実が、「本が増えて家が手狭になった」という理由で妻子を殺害。小説家の「私」は事件をノンフィクションにまとめるべく取材を始めた。「いい人」と評される仁藤だが、過去に遡るとその周辺で、不審死を遂げた人物が他にもいることが判明し…。戦慄のラストに驚愕必至!ミステリーの常識を超えた衝撃作、待望の文庫化。

これはなんとも貫井さんらしい作品。
謎解き要素は少ないのでミステリと呼べるかどうかは微妙なところですが、ミステリの技巧を生かしたストーリー運びで読者を惹きつけ、主題である「人はどこまで他人のことを理解できるのか」について自然に考えさせる手法がさすがです。


川で母子が溺死、最初は事故と思われていたが、やがて目撃者が現れて事態が急展開。
母子の夫であり父であった銀行員・仁藤が殺人犯として逮捕されます。
仁藤が供述した「本が増えて家が狭くなったから」という、にわかには信じがたい殺害動機に世間は驚愕しますが、さらに仁藤が過去に起こったいくつかの事故に関わっていたのではないかという疑惑が持ち上がります。
ある作家が仁藤の疑惑について取材を始めますが、職場の同僚や学生時代の友人など、仁藤の周囲の人々はみな口をそろえて「仁藤は人格者だ」と証言し、常識を超えた動機で殺人を犯すような人物像は見えてきません。
国内最難関の大学を卒業したインテリで、スポーツもそつなくこなし、容姿も端麗、いつも冷静で温厚で落ち着きのある人柄という仁藤の真の姿に迫ろうとする作家ですが――。


最後まで読んでも、仁藤の疑惑の数々について明確な答えは出ず、心にもやもやの残る結末ですが、それこそが貫井さんの狙いなのでしょう。
誰もが「人格者」とまで評する仁藤が本当に恐るべき連続殺人犯なのか、人を喰ったような殺害動機の供述は本当に本心なのか。
どちらもよく分からないままに終わるからこそ、仁藤という人物の底の知れなさが浮かび上がってきてぞっとさせられます。
たくさんの人が仁藤の印象について証言をしていますが、そもそもその証言が本当に正しいのか。
いえ、嘘をついている人はきっとひとりもいないのでしょう。
そういう意味での「真実」ではなく、仁藤が本当はどんな人であるかを正しく理解していた人がいたのか、という点に疑問符がつくのです。


同じ職場で働く人なら確かに長い時間を共に過ごすのですから、ある程度人となりを理解できるだろうと思えますが、実際のところ、プライベートまでの深い付き合いにはなかなかならないものでしょうし、どこまで腹を割って本音を見せていたかまでは分からないのではないでしょうか。
そして、それはもしかすると家族であっても同じかもしれないのです。
この作品の巧いなぁと思うところのひとつは、妻子が殺されているので、家族から見た仁藤の人物評が書かれていないところです。
特に妻は仁藤をどう見ていたのかが気になります。
交際時代に「何を考えているか分からない」という理由で妻は一度仁藤と別れています。
その後結局よりを戻して結婚に至るのですが、その「何を考えているか分からない」という印象は、よりを戻した後も続いたのか、それとも解消されたのか。
職場の人たちによる人物評と妻による人物評がどう違っていたのかが知りたいなぁと思ったのですが、「死人に口なし」とはよく言ったものです。
そういう点でも、仁藤の底の知れなさが浮き彫りになっています。


そんなふうに仁藤という人物の「よく分からなさ」を読んでいるうちに、自分に置き換えてみて自分はどこまで周りの人たちのことを理解しているのだろうかと考え、不安にさせられるのです。
ある人のほんの一面だけを見て、「この人はこういう人だ」と勝手に人物像を描いて、決めつけてはいないかと。
また、それは身近な人だけにとどまりません。
たとえば世間を騒がすような事件が起こった時、大抵テレビや雑誌などで容疑者はこんな人だったと報道がなされます。
でも、そうした報道で描かれる犯人像が正しいかどうかなど、どうやって視聴者に判断ができるのでしょうか。
直に接したことがあってもその人の全てを理解するのは難しいのに、会ったこともない人の人となりが、記者というフィルターを通して報じられる内容から完璧に分かるわけがありません。
最初からこの人が犯人だという目で見ていたら予断もあるでしょうし、この作品で描かれるような「よく分からない」結末をテレビや雑誌の視聴者や読者が求めるはずもないからこそ、分かりやすいストーリーを描いてそこに犯人像を当てはめるようなこともあるのではないかと思えます。
真実を知ることの難しさを思わずにはいられません。


それにしても、「よく分からない」「理解できない」というのが人間にとって一番気持ち悪い、あるいは怖ささえ感じることなのかもしれないなぁと思いました。
だからこそ謎が解かれ、真相がぱっと目の前に開示されて視界が開けたような気になれるミステリは、気持ちがよく面白く感じられるのでしょう。
そのようなカタルシスとは対照的なのがこの作品でしたが、あえてミステリの面白さとは真逆のものを追求する貫井さんの姿勢がよいなと思います。
☆4つ。