tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『さようなら、オレンジ』岩城けい

さようなら、オレンジ (ちくま文庫)

さようなら、オレンジ (ちくま文庫)


オーストラリアの田舎町に流れてきたアフリカ難民サリマは、夫に逃げられ、精肉作業場で働きつつ二人の子どもを育てている。
母語の読み書きすらままならない彼女は、職業訓練学校で英語を学びはじめる。
そこには、自分の夢をなかばあきらめ夫について渡豪した日本人女性「ハリネズミ」との出会いが待っていた。

太宰治賞・大江健三郎賞受賞、芥川賞候補作ということで、純文学が苦手な私はちゃんと読めるだろうかと危惧していましたが、思ったよりずっと読みやすい文章で、内容もすんなり頭に入ってきて安心しました。
自分にとって興味のある分野の話だったというのがよかったのかもしれません。


この物語はふたつのパートに分かれています。
ひとつ目は、アフリカから難民としてオーストラリアに渡ってきた女性・サリマの視点で描かれるパート。
そしてもうひとつは、研究者の夫についてオーストラリアへやって来た日本人女性が、「ジョーンズ先生」に宛てて書いた手紙のパート。
ふたりの女性の視点で、異国で生きていくということ、生きるために外国語を身に付けるということを描いています。


私は大学の英文科を卒業し、今も英語を勉強しながら英語を使って仕事をしています。
英語を学んでいるという点ではサリマと同じですが、サリマと私とでは学ぶ理由も切実さも全く異なります。
私は自分が好きで英語を勉強することを選んでやっているので、やめたいと思えばいつやめても全くかまわないのですが(幸い?やめたいと思ったことはありませんが)、サリマはそういうわけにはいきません。
彼女は戦争によって祖国に住めなくなり、オーストラリアで生きていくしかなくなった人です。
帰る故郷はなく、たとえそれが本人の意思に反していたとしても、生きていくために英語を学ばざるを得ないのです。
サリマの仕事はスーパーマーケットでの肉の解体で、それほど語学力を必要とするような仕事ではありません。
とはいえ、祖国に帰るとか他の国に行くとか、そういうことは考えていない彼女は、今も、そしてこれからも、オーストラリアで生計を立て、子どもを育てていかなければなりません。
そのためにはもちろん地域社会に受け入れられることが必要です。
自分と同じような異国の出身者だけではなく、地元の人との交流もなければならないのです。
それには、英語を習得しなければならない。
母語ですら満足な教育を受けたわけではない彼女にとって、外国語の習得が苦難に満ちたものであろうことは、容易に想像がつきます。
差し迫った事情があるわけではなく、ただ好きだからという理由で英語を勉強している自分が、いかに恵まれているかということを痛感しました。


ただ、別に外国語を学んでいるわけでもなく、外国に住む予定もない、というような日本生まれ日本育ちの生粋の日本人であっても、この作品は遠い世界の話というわけではないのではないでしょうか。
現在シリア難民の問題が世界中で大きなニュースになっており、日本ももっと難民を受け入れるべきという意見も出てきています。
そうした流れの中で、これから日本人にとっても難民問題がどんどん身近なものになっていくと予想されます。
この作品は難民側の視点しか描かれていませんが、難民を受け入れる側の現地人のさまざまな思いや事情を想像することはできます。
日本とは全く異なる文化と言語の国から来る難民をどのように受け入れ、支援すればよいのか、考えるためのよすがになると思います。
そして、世界的にみると特殊と言われがちな日本と日本人のあり方をも考えさせてくれます。
日本に住んでいれば、日本人は差別されることなどないでしょうが、世界的に見れば「白人で英語のネイティブスピーカー」というのが最大のマイノリティ。
黄色人種で英語の非ネイティブである日本人は、そのようなマイノリティが幅を利かせる国では、サリマのようなアフリカ人同様、差別される側になることもあります。
ほとんどの日本人は普段あまり意識する機会がないでしょうが、母語で学び、母語で働き、母語で生活できるということは、実はとても幸せで恵まれたことなのだと、この物語が教えてくれるのです。


部分的に英語の記述も挿入され、多少なりとも英語の知識はあった方が楽しめるかもしれませんが、英語に特に興味はないという人にもおすすめしたい作品でした。
言語を学ぶということを描く小説というのはとても新鮮で、主人公と立場は全く違えど同じ英語学習者として共感できる部分もありましたが、欲を言うならオーストラリアという国の描写がもう少し欲しかったなと思います。
舞台がオーストラリアである必要性があまり感じられず、作者の在豪20年という経歴が活かせているとは思えなかったのが残念でした。
最近刊行された同作者の『Masato』も似たような題材を扱った作品のようなので、また読んでみたいと思います。
☆4つ。