tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『舟を編む』三浦しをん

舟を編む (光文社文庫)

舟を編む (光文社文庫)


出版社の営業部員・馬締光也は、言葉への鋭いセンスを買われ、辞書編集部に引き抜かれた。新しい辞書『大渡海』の完成に向け、彼と編集部の面々の長い長い旅が始まる。定年間近のベテラン編集者。日本語研究に人生を捧げる老学者。辞書作りに情熱を持ち始める同僚たち。そして馬締がついに出会った運命の女性。不器用な人々の思いが胸を打つ本屋大賞受賞作!

2012年の本屋大賞に輝いたベストセラー作品。
個人的に本屋大賞にノミネートされた作品にはハズレが少ないと思っているので、とりあえずノミネート作はチェックすることにしていますが、この作品はたとえノミネートされていなかったとしても、絶対に読んでいただろうなという確信があります。
何を隠そう辞書好きの私。
その辞書を作る人たちの話で、辞書を言葉の大海を渡るための舟に例えるタイトルからして素晴らしい。
これはもう読むしかないだろうという感じです。
読む前にかなり期待が膨らみすぎてしまって逆に不安になりながら読み始めましたが、結局その期待が裏切られることはありませんでした。


もう冒頭の、馬締(まじめ)が辞書編集部員にスカウトされる場面からぐっと心を鷲掴みにされました。
そう長く語られるエピソードではないのですが、短い中で馬締の変人ぶりがよく分かるようにギュッと濃縮された場面だと思います。
そして、彼が辞書編集者にぴったりな人間だということもよく分かるようになっています。
「島」という言葉をどう定義すればよいか、という、簡単なようでけっこうな難題を、馬締はその名の通り真面目に、真摯に、じっくり考えてふさわしい「意味」を見つけ出そうとします。
その後、せっかく意中の女性と遊園地に行くことになったのに、その女性の存在を忘れてしまったかのように「あがる」と「のぼる」の違いについて考え込んでしまう場面でも、馬締の言葉に対するこだわり具合がよく分かります。
言葉そのものが好きというのはもちろんなのでしょうが、こういうのは持って生まれたセンスが必要なのではないかという気がします。
馬締はまさにそのセンスを持ち、辞書編纂に携わるために生まれてきたような人だと感じました。
こういう天職に出会い、情熱を仕事に傾ける人が主人公のお仕事小説が、面白くないわけがありません。
ちなみに、馬締の意中の女性で、その後妻になる香具矢も、板前という職業に情熱を注ぎこんでいる女性で、馬締の奥さんにぴったりだし、お互いの仕事に敬意を持ち尊重し合える夫婦の関係は理想的だなぁとうらやましくなりました。


もちろん辞書編纂という仕事の内容自体にも興味津々で読みました。
普段の生活の中で見聞きした言葉の使い方をメモしておく「用例採集カード」には、なるほどなぁと感心しました。
この時代においてはなんともアナログで、古臭いやり方のようにも思えますが、自分の手と筆記用具さえあればいつでもどこでもすぐに記録できるという利点こそが、地道な作業の多い辞書作りには必要なのだろうと思います。
そういう日々の努力はもちろん、そうやって採集した言葉たちを整理して、辞書に収録するかどうか検討して、定義や用例を考えて、必要であれば専門家に執筆を依頼して――。
辞書というのが、何万、何十万もの語を収録するものであることを考えると、本当に気が遠くなるような手間のかかる作業で、実際この物語の中でも、「大渡海」という1冊の辞書が完成するまでに13年もの年月が費やされています。
その途中には大きなミスが見つかっててんやわんやになったり、そもそも出版自体が会社からの横槍によって暗雲が立ち込めたり、と困難の連続です。
あれだけたくさんの細かな文字が詰まった分厚い本なのですから、校正の大変さも容易に想像がつきます。
ものづくりに困難と苦労が伴うのは当たり前ですが、こんなに大変な仕事というのもそうはないでしょうし、本当に好きで、情熱を持てなければできそうもないことだなと思いました。
本文の紙ひとつとっても、手触りにめくりやすさに裏写りしにくさと、細部にまでこだわって作られる様子に感心するばかりでした。


編集者はもちろんのこと、社内外のたくさんの協力者の地道で堅実な仕事と情熱によって作られる辞書という書物が、ますます好きになりました。
学生時代英文科にいたこともあって、たくさんの辞書を持っている私ですが、その全部を大切に使っていこうと思いました。
それで言葉の海をうまく泳ぐことができれば、言うことはありません。
辞書編纂というある種特殊な仕事を、万人に分かりやすい軽快な文体で楽しく読ませる作者の手腕にも感心させられました。
時々くすっと笑ったり、涙がにじんだりと、とても楽しい読書になり、大満足です。
☆5つ。