tontonの終わりなき旅

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『晴天の迷いクジラ』窪美澄

晴天の迷いクジラ (新潮文庫)

晴天の迷いクジラ (新潮文庫)


デザイン会社に勤める由人は、失恋と激務でうつを発症した。社長の野乃花は、潰れゆく会社とともに人生を終わらせる決意をした。死を選ぶ前にと、湾に迷い込んだクジラを見に南の半島へ向かった二人は、道中、女子高生の正子を拾う。母との関係で心を壊した彼女もまた、生きることを止めようとしていた――。苛烈な生と、その果ての希望を鮮やかに描き出す長編。山田風太郎賞受賞作。

窪美澄さんは、デビュー作『ふがいない僕は空を見た』がよかったので、次作もきっと読もうと思っていました。
今回も期待通りの秀作。
生きていくことの、どうしようもない窮屈さ、苦しさがまざまざと描き出されていて息が詰まりますが、最後には優しい希望も感じることができました。


思えば『ふがいない僕は空を見た』を読んだときにも思ったものです。
生きるということはどうしてこんなに厳しく過酷なのだろう、と。
この作品の舞台は現代の日本です。
戦争やテロもなく、治安もよく、政情不安もなく、民主主義と司法が機能していて、豊かでものがあふれていて――世界には貧しかったり政情が不安定だったり殺し合いが絶えなかったりする国がたくさんあります。
そんな国に比べればはるかに恵まれていて、生きやすいはずの日本で、どうして自ら人生を終わらせたいと願う人がたくさんいるのか。
もうこれは、国とか政治とか関係なく、人間として生まれてきた以上、人生が大変なのはそういう運命だからなのではないかと思ってしまいます。


この作品に登場する、年齢も出身地もバラバラの3人の主人公たちは、みな人生に問題を抱えています。
デザイン会社に新米デザイナーとして勤める由人(ゆうと)は、農家の次男として生まれます。
病弱な兄を溺愛する母に邪険にされて育ち、やがて兄は引きこもりに、妹は15歳で子どもを産んで母になりました。
父の勧めで東京に出て美術の専門学校に通い、卒業後にデザイン会社に就職しますが、社長に怒鳴りつけられながら激務をこなすうちに、恋人に振られ、会社も倒産の危機を迎えて、うつを発症します。


そして、そのデザイン会社の社長というのが、海辺の街で生まれ育った野乃花。
貧しい家庭に育った野乃花は、絵を描くのが得意で幼い頃から何度も賞を獲ってきましたが、家計を助けるため高校卒業後は進学をあきらめ就職しようと考えていました。
けれども担任教師の勧めで通い始めた絵画教室の講師と恋に落ち、やがて妊娠して彼と結婚することになります。
ですが婚家になじめず、育児ノイローゼになった野乃花は、子どもを捨てて家出をし、やがてデザイン会社を設立しますが、その会社も倒産の危機に追い込まれます。


人生に行き詰まり、追い込まれた果てに自殺を考えた由人と野乃花の二人は、なりゆきに任せてテレビのニュースで見たある入り江に迷い込んだクジラを見に行く旅に出ます。
そして、その旅の途中で見つけて拾ったのが、高校1年の正子でした。
異常なまでに神経質で厳格な母の束縛に耐えかね、さらには初めてできた友達を失って、心を壊した正子はリストカットを繰り返し、もう生きるのをやめてしまいたいと思っていたのでした。


家庭というのは、一番小さな「社会」と言えるかもしれません。
でも、どんな家庭に生まれてくるかは、自分で選べないのが厄介です。
血がつながっているとは言え、一人一人個性の違う人間が寄り集まっているのですから、さまざまな摩擦や軋轢も起こります。
愛情や思いやりに満ちたあたたかい家庭ばかりではない、というのは、厳然とした事実です。
この小さく狭い「社会」が息苦しい場所だった場合、それはそれはつらいことだろうと思います。
でも、そこから逃げ出したとしても、その先にはさらに広い「社会」が待っていて、そこも決して自分に優しいあたたかい場所だとは限らないのです。
苦しい生から逃げ出そうとした3人の行きつく先は、完全な「希望」とは言い切れません。
傷ついて入り江に迷い込んだクジラがやがて大海に戻っても、そこで生きていけるかどうかは分からないように、3人もこの先の人生が劇的に明るい方へ転じるということはないのでは、と思えます。
それでも、とにかく彼らは死ななかった。
生きている限り苦しみも痛みも続いていくのかもしれないけれど、それでも生きることを選んだ。
そのことだけで、もうそれは希望なのだろうと思いました。
最終章に登場するある人物の言葉、「絶対に死ぬな。生きてるだけでいいんだ」が胸に深く突き刺さります。


完全なハッピーエンドとは言えないけれど、それでも確かに希望があると感じさせてくれるラストがとても印象的で、じわじわと少しずつ心に光が広がっていくような読後感でした。
さあ、明日も頑張って生きよう。
☆4つ。


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