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tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『獣の奏者 外伝 刹那』上橋菜穂子

獣の奏者 外伝 刹那 (講談社文庫)

獣の奏者 外伝 刹那 (講談社文庫)


王国の行く末を左右しかねぬ政治的運命を背負ったエリンは、女性として、母親として、いかに生きたのか。エリンの恩師エサルの、若き頃の「女」の顔。まだあどけないジェシの輝く一瞬。一日一日、その時を大切に生きる彼女らのいとおしい日々を描く物語集。エリンの母ソヨンの素顔を描いた単行本未収録短編「綿毛」収録。

上橋菜穂子さんが作り出す世界は、ファンタジーの世界だとは思えないくらいにリアリティがあって、その中で人々が生きている様子が、時に生々しいくらいに描き出されます。
そういう世界だからこそ、こうして本編の傍流の物語が生きてくるのでしょう。
本編から派生してどんどん広がっていく世界に、いつまでも浸っていたいと感じました。


本編では詳しく描かれなかった、主人公エリンとその夫となったイアルの、馴れ初めと新婚時代を描いた「刹那」。
そして、カザルム学舎で獣ノ医術師としてのエリンを育てたエサル師の、娘時代の秘めた恋を描いた「秘め事」。
エリンの息子ジェシの乳離れについての微笑ましい短編「初めての…」。
さらに、文庫版限定描き下ろし短編「綿毛」も収録された、とても内容の濃い中短編集です。
どの話にも中心に「恋愛」がありますが、ラブコメのような軽い感じではなく、もっと「生」と「性」に近い、生々しさと重さを伴っています。
本編でエリンとイアルが夫婦として登場した時には軽い驚きと、喜びとを感じました。
その2人の恋愛話が読める、というのはやはりうれしく、ワクワクしながら、ちょっと野次馬根性のようなものもありつつ読み始めたのですが、恋のときめきとか喜びとかそういった幸せな感情以上に、生きるということの困難さや責任の重さが伝わってくる物語だと思います。


王獣を操るという、国の命運を握るほどの大きな力を持ってしまったエリン、貴族の娘としてのレールを外れて独身のまま医術師としての道を進んだエサル、そして一族を離れてまで本当に愛する男性と結ばれることを選んだエリンの母ソヨン。
この作品集に登場する3人の女性の共通点は、「普通の女性」としての生き方から外れているということでしょう。
周りから期待される生き方ではなく、むしろ疎んじられるようなこともある生き方を選んだ女性たち。
それでも彼女らが「女」であることは紛れもない事実なのです。
女の生きるべき道を生きなくても、女は女であることから逃れられない。
そしてそれは、男性にも同じことが言えるのではないかと思います。
結局、人間も「生き物」…「獣」の一種なのだと。
生物としての本能から逃れられない以上、異性に惹かれ、交わって子を生すという宿命からも逃れられないのです。
幸福な時間は長くは続かない夫婦生活になると分かっていても、イアルとの恋に飛び込まずにはいられなかったエリンの、生き物としての、女としての強い願いと苦悩とが痛いくらいに心に突き刺さりました。
それでも、本編でも苦難の道を歩み続けたエリンだからこそ、ほんの刹那にすぎなくても幸せな時間が確かにあったのだと確かめられたことは、大きな救いのように感じました。


作者の上橋菜穂子さんは、この作品集を「人生の半ばを過ぎた」人に向けて書いたと述べられています。
確かに、まだ若い青春時代を生きている人たちには、この物語が本当に描こうとしていることを実感を伴って感じ取ることは難しいかもしれません。
ある程度歳を重ねて、自分が歩んできた道を冷静に振り返ることができるようになってこそ、本当の感動がこの作品集から得られるのではないかと思います。
私ももう少し歳を取ってからもう一度読み返したいと思います。
その時に何を感じることができるのか、今から楽しみです。
☆4つ。