tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『モルフェウスの領域』海堂尊

モルフェウスの領域 (角川文庫)

モルフェウスの領域 (角川文庫)


桜宮市に新設された未来医学探究センター。日比野涼子はこの施設で、世界初の「コールドスリープ」技術により人工的な眠りについた少年の生命維持業務を担当している。少年・佐々木アツシは両眼失明の危機にあったが、特効薬の認可を待つために5年間の“凍眠”を選んだのだ。だが少年が目覚める際に重大な問題が発生することに気づいた涼子は、彼を守るための戦いを開始する。人間の尊厳と倫理を問う、最先端医療ミステリー!

どんどん広がっていく海堂尊さんの「桜宮サーガ」。
この『モルフェウスの領域』は他の作品とのつながりが密接で、海堂作品のファンなら何度も「これはあの作品の…」と気付いてにんまりできるはずです。
そういう意味では非常にファンサービスの度合いが高い作品と言えます。
ですが、もちろんそれだけではありません。


網膜芽腫を患って右眼を摘出した少年・アツシ。
その後再発し、左眼をも摘出しなければならなくなったアツシは、9歳にして一つの重大な決断を下しました。
それは5年間凍眠し、その間に網膜芽腫の特効薬が認可される可能性に賭けるというものでした。
こうしてコールドスリープの世界初の事例になったアツシを、そばで見守り、その生命を維持するための業務を担当してきたのが日比野涼子。
アツシに情が移った涼子は、彼を守れるのは自分しかいないと、この最先端医療に立ちはだかる壁に立ち向かうことを決意します。
彼女が取った勇気ある大胆な選択とは――?


コールドスリープの患者が、あの『ナイチンゲールの沈黙』に登場するアツシだと分かった時点でもううれしかったです。
あの作品はミステリとしてはいまひとつでしたが、登場人物たちのその後についてはとても気になっていたからです。
もちろんアツシ以外にも複数の作品からいろんな人物がちょくちょく顔を見せて、そのたびにうれしくなりました。
チーム・バチスタ」シリーズの主人公、不定愁訴外来の田口先生も登場します。
この作品だけ読んでもそれなりに楽しめるとは思うのですが、やはりある程度他の作品とのリンク部分が分かる方が楽しみは増えます。
できれば『ナイチンゲールの沈黙』以外に、『ジーン・ワルツ』『マドンナ・ヴェルデ』『ジェネラル・ルージュの凱旋』あたりは読んでおいた方がよいと思います。
ちなみにこの作品は、作品間のある齟齬を解消するために書かれた作品だそうなのですが、それでも同じ桜宮市を舞台とする作品をこれだけいくつもリンクさせてどんどん世界を広げていっているのはお見事だと思います。


そして、もう一つの見どころはもちろん、最先端医療技術と、政治的・倫理的側面とのせめぎ合いです。
最先端の技術が開発され、その技術を必要とする患者やその家族がどんなに待ちわびている状況でも、実用化されるにはさまざまな壁があり、それは厚労省の体質的な問題であったり、法的な問題であったりするということが描かれています。
新薬の承認にしても同様で、欧米では普通に使用されいている薬が、日本での認可には非常に時間がかかり、結果として救えるはずなのに救われずにいる患者が多数存在しているのが現状なのです。
そうした日本の医療が抱える問題に鋭く切り込み、あっと驚く解決策を提示してみせるという構成は、もう海堂作品ではおなじみですね。
コールドスリープという技術と、それに関する法的・倫理的な問題という、専門的で難しそうな内容を、いつも通り小説の形で素人にも分かりやすく説明してくれています。
ただ、SF作品などではよく登場するコールドスリープというものが、現実的にどの程度実現可能で、医療に応用できるのか、という点はほとんど説明がなく、従って少々現実離れした話のようにも思えました。
おそらく、新技術が開発されてそれが患者を救うために必要なものであってもなかなか実際に使用されるには至らないということを説明するために、SF映画などで一般人にもなじみ深いコールドスリープが選ばれたというだけなのかなとは思いますが。
5年間のコールドスリープから目覚めたアツシの反応や周りの人々の対応はなかなか興味深かったです。


ラストの涼子の決断には驚かされましたが、その決断に至った理由だとか心情についてはもう少し説明が欲しかったようにも思いました。
ただ、涼子のアツシを守りたいという想いの強さには胸を打たれるものがありました。
若干SF的要素の入った医療小説でありながら、ピュアなラブストーリーの側面もあると思います。
☆4つ。