tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『あるキング』伊坂幸太郎

あるキング (徳間文庫)

あるキング (徳間文庫)


この作品は、いままでの伊坂幸太郎作品とは違います。意外性や、ハッとする展開はありません。あるのは、天才野球選手の不思議なお話。喜劇なのか悲劇なのか、寓話なのか伝記なのか。キーワードはシェイクスピアの名作「マクベス」に登場する三人の魔女、そして劇中の有名な台詞。「きれいはきたない」の原語は「Fair is foul.」。フェアとファウル。野球用語が含まれているのも、偶然なのか必然なのか。バットを持った孤独な王様が、みんなのために本塁打を打つ、そういう物語。

上記のあらすじにも真っ先に断りが入れられている通り、伊坂作品の中では異色とされ、賛否両論を巻き起こした、ある意味「問題作」です。
さてどんな感じかなぁと恐る恐る読み始めましたが、意外に読み心地はこれまでに読んだ伊坂作品と大差があるわけではありませんでした。
でも…うーん、どう評していいのかよく分からない、難しい作品だなぁ、というのが正直な感想です。


仙醍(せんだい)市を拠点とする弱小プロ野球チーム、仙醍キングス。
この球団をこよなく愛する夫婦のもとに生まれてきた男の子は、「王求(おうく)」と名付けられ、やがて天才バッターとしての素質を開花させます。
あまりにも完璧で美しいフォームでホームランを打ちまくるため、試合ではまともに勝負してもらえず敬遠や死球ばかり。
まぎれもない天才バッターでありながら、まともな野球人生は歩めず、それでもやがて紆余曲折を経た後に仙醍キングスに入団する王求でしたが…。


まず目を惹かれるのは、冒頭にある何種類かの『マクベス』の有名なせりふの訳の引用。
"Fair is foul, and foul is fair."という誰もが一度くらいは耳にしたことがあるせりふで、「きれいは汚い、汚いはきれい」という訳が有名かと思いますが、引用されている訳は訳者によってさまざまで、翻訳って面白いなと思わされます。
そしてこのせりふは、『あるキング』の作中のあちこちに登場してきます。
マクベス』に登場する人物、たとえばマクベス王、3人の魔女、マクベスの父、マクベス夫人などをイメージしているのかなと思わせる人物も現れますが、『マクベス』のストーリーをそのままなぞっているというわけではありません。
マクベス』をモチーフとして採用し、作中のあちこちにその要素が登場しますが、単なる換骨奪胎でも、焼き直しでもなく…。
何と表現していいのか、適切な言葉が見つかりませんが、『マクベス』の世界が伊坂作品の世界と融合した、という感じでしょうか。
さらにはマクベス以外にもいくつかのアメリカ文学の影響も受けているらしく、非常に文学的で、実験的な作品だなと感じました。


それにしても、『マクベス』のfairとfoulから、「フェア」と「ファウル」という野球用語に結びつけて野球小説にしてしまうという発想は非常にユニークで面白いなと思いました。
もともとダジャレのような言葉遊びや、ユーモアあふれる比喩表現やせりふ回しが得意な伊坂さんらしい発想だと思います。
私は大学で英文科にいたので『マクベス』は授業で読みましたが、伊坂さんのように作品世界やせりふに刺激を受けて自分なりの自由な発想を広げるなんてことはなかったなぁと思うと、やはり自分には文学的センスが欠落しているのかもしれない、と思わず苦笑してしまいました。
でも、そういえばシェイクスピアも言葉遊びをふんだんに散りばめる作家なんですよね。
その点は伊坂さんと共通するところがあるのかもなぁと思いました。
そして、もう一つの共通する点は、「フェア」と「ファウル」の描き方でしょうか。
ストーリー中には犯罪行為も描かれますし、犯罪ではないだろうけれど道徳的にどうなのかと思われる行為も出てきます。
王求が敬遠されるのも、真っ向勝負を避けることが野球人として「フェア」なことなのかどうか怪しいところですが、勝負なのだから勝利を追求すべきだという考え方のもとでは、作戦としての敬遠は「フェア」である、とも言えます。
伊坂さんは「これが正しい」というような価値観の押し付けはこの作品の中では全くしていません。
そのために「何が言いたいのかよく分からない」作品になっているとも言えますが、フェアとファウルの境界線の曖昧さこそが伊坂さんの書きたかったことなのだろうし、それは『マクベス』にも通ずるものだと思います。


…と何やら分かったようなことを書いてしまいましたが、正直なところこの作品をきちんと理解できたかどうか、まったく自信がありません。
ある程度文学知識もセンスも問われる作品だと思いますが、普通じゃない野球選手の人生を追った、一風変わった野球小説としての面白みもありました。
評価をつけることに迷いもありますが、とりあえず☆3つにしておきます。
また時間を置いてから再読してみたいです。