tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『神様のカルテ』夏川草介

神様のカルテ (小学館文庫)

神様のカルテ (小学館文庫)


この病院では、奇蹟が起きる。
栗原一止(いちと)は信州にある「24時間、365日対応」の病院で働く、29歳の内科医である。ここでは常に医師が不足している。専門ではない分野の診療をするのも日常茶飯事なら、睡眠を3日取れないことも日常茶飯事だ。妻・ハルに献身的に支えられ、経験豊富な看護師と、変わり者だが優秀な外科医の友人と助け合いながら、日々の診療をなんとかこなしている。  そんな栗原に、母校の医局から誘いの声がかかる。大学に戻れば、休みも増え愛する妻と過ごす時間が増える。最先端の医療を学ぶこともできる。だが、大学病院や大病院に「手遅れ」と見放された患者たちと、精一杯向き合う医者がいてもいいのではないか。悩む一止の背中を押してくれたのは、死を目前に控えた高齢の癌患者・安曇さんからの思いがけない贈り物だった。  第十回小学館文庫小説賞受賞作。2010年本屋大賞第2位。

話題になった作品だから、ぐらいの軽い気持ちで手に取ったのですが、これが大当たり。
ストーリーも、文体も、登場人物も、雰囲気も、全て私のツボでした。
こういう出逢いがあるから、読書はやめられないんだなぁ。


なんだか上に引用したあらすじがやけに気合いが入っていて、もう私が説明することは何もないっていうぐらいなので、あらすじ紹介は割愛。
主人公の栗原一止は夏目漱石の『草枕』をこよなく愛していて、話し方も漱石に影響されて文士風になっています。
だから一止の一人称で語られる物語の文体もちょっと古めかしいものになっています。
そして幽霊屋敷のような古い下宿屋「御嶽荘」に住まう、一止の友人「学士殿」に「男爵」という、昔の文学作品に登場しそうな、やはりちょっと変わった人たち。
この古めかしくてもはやファンタジーに近いような、浮世離れした雰囲気と、地方の病院の厳しい現実とのギャップがなかなかすごいです。
でもこのギャップがいいのかなと思います。
一方では日本の医療が抱える問題を凝縮したような殺伐とした現場があって、その一方ではふわふわと地に足のつかないような世界が描かれる。
そしてさらに、小さな身体で重い機材を担いで世界を飛び回る一止の「細君」、ハルのほんわかとした愛らしさが、この作品のやわらかな雰囲気に拍車をかけています。
このハルさんが本当に可愛らしいのです。
優しくて、よく気がついて、健気。
こんな細君、私も欲しいです(…え?)。
ラストの一止のおのろけが程よい甘さで、可愛い夫婦だなぁと思わず笑みがこぼれました。


もちろん、地方の総合病院に勤める医者は、多くの生と死に向き合わなければなりません。
患者さんとのつらい別れも描かれます。
でも、だからこそ「生きる」とはどういうことなのか、一人の医者として一止にできることは何なのかがはっきりと浮かび上がってくるのです。
大学病院の医局に属する誘いを受けた一止が最後に選んだ道に、大いに共感したし感動しました。
こんなふうに患者さんに寄り添ってくれる医者がいるからこそ、日本の医療は崩壊寸前と言われながらも何とか持ちこたえているのでしょう。
亡くなった患者さんに対して、もっとああすればよかったのではないか、こうした方がよかったのかも、などとあれこれ考え、無力感に苛まれたり思い悩んだりする一止の姿に、改めて医療に関わる人たちへの敬意と感謝の気持ちが湧き上がってきました。
一つ一つの選択に人の命がかかっているという、大きな責任を伴う仕事に懸命に取り組む方々が報われる世の中でありますように。
そう願わずにはいられませんでした。


つらい現実も描かれる一方で、心にあたたかいものが残る優しい物語でした。
身の周りのささやかな幸せをかみしめて、一歩一歩大切に生きていこうと思わせてくれました。
続編も刊行されたようで、楽しみです。
☆5つ。
そうそう、この文庫版は解説が上橋菜穂子さんだったのもうれしかったです。