tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『沖で待つ』絲山秋子

沖で待つ (文春文庫)

沖で待つ (文春文庫)


仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。そう思っていた同期の太っちゃんが死んだ。約束を果たすため、私は太っちゃんの部屋にしのびこむ。仕事を通して結ばれた男女の信頼と友情を描く芥川賞受賞作「沖で待つ」に、「勤労感謝の日」、単行本未収録の短篇「みなみのしまのぶんたろう」を併録する。すべての働くひとに。

絲山秋子さんに興味を持ったのは、新聞のインタビュー記事がきっかけでした。
作家になる前、当時はまだ珍しかった女性総合職として住宅機器メーカーで営業をしていた話が興味深くて、作家というよりもひとりの女性としての絲山さんの生き方に惹かれました。
芥川賞受賞作でもあるこの「沖で待つ」という作品は、そんな絲山さん自身の会社員生活が大きく反映された作品なのだろうと思います。


「職場」というのは不思議な場所ですね。
つらいことも多いけれど、うれしいことがあったり、力をもらったりする場所でもあるんですよね。
さまざまな人が全員で一つの目標に向かって闘う場所。
だから、時にはぶつかり合うこともあるけれど、一緒に働いていればある種の連帯感は必ず生まれる。
それが同期入社ともなれば、本当に苦楽を共に過ごしてきた同志という感覚が強いんだろうなぁ…。
私には「同期」と呼べる存在がいません。
それがすごく残念だと今までも思ってきたのですが、この作品を読んでますますその思いが強くなりました。
主人公の「私」こと及川と、「太っちゃん」は同期入社の仲間。
新卒で入社し、最初に福岡に配属になり、覚えたての仕事に悪戦苦闘し、おいしいものを食べ歩き…。
共に新人時代を過ごした2人は、やがて別々の場所に転勤になって離れ離れになります。
久しぶりに再会した時、太っちゃんが言い出したのは「どちらかが先に死んだら、残った方が死んだ方のパソコンのHDDを破壊しに行こう」という約束でした。
パソコンのハードディスクという、その人の「秘密」が詰まった場所。
恋人にも親友にも家族にも立ち入られたくないその場所を、2人はお互いを信用して「必ず壊しに行く」と固く約束するのです。
こんな約束ができるのもきっと「同期」だからなんですね。
男女であっても恋人じゃない、男女だからこそ同性の友達同士の関係とも違う、お互いのみっともないところを全て見てきた、一緒に闘ってきた仲間…。
その独特の距離感が心地よさそうで、私はきっと一生そんな関係を誰かと築くことはないのだろうと思うと、どうにもうらやましくてたまりませんでした。
でも、企業で働く人間として、この短い作品の中に描かれているさまざまな会社生活における出来事、微妙な人間関係の一つ一つには、共感できる部分がたくさんありました。
仕事そのものも面白い部分もたくさんあるけれど、そういった会社という一種独特な場所自体にも面白い部分があるから、なんだかんだと愚痴や文句を吐きつつも働き続けられるのかもしれないと思いました。


他に収録されている「勤労感謝の日」は絵に描いたような「ダメ男」との散々なお見合い話がなんだか痛快で面白かったし、この文庫のみに収録の「みなみのしまのぶんたろう」も童話風でユーモアがあって味わいのある作品でした。
芥川賞というとなんだかとっつきにくい印象がありましたが、文体もとても読みやすくて非常に楽しめました。
☆4つ。