tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)


一九六〇年、プラハ。小学生のマリはソビエト学校で個性的な友だちに囲まれていた。男の見極め方を教えてくれるギリシア人のリッツァ。嘘つきでもみなに愛されているルーマニア人のアーニャ。クラス1の優等生、ユーゴスラビア人のヤスミンカ。それから三十年、激動の東欧で音信が途絶えた三人を捜し当てたマリは、少女時代には知り得なかった真実に出会う!大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。

2006年に惜しまれながらこの世を去った米原万里さんの著書3冊、会社の同僚に借りました。
新年早々ちょっと重いかな…とも思ったのですが、ユーモアもたっぷり含まれた洗練された文章で、予想以上に読みやすかったです。


本書は米原さん自身の在プラハ・ソビエト学校時代の親友3人との交遊録という形をとったエッセイでありながら、小説のような感覚で読むことができます。
多感な少女たちの楽しい会話や日常生活、また国際色豊かなソビエト学校での授業の様子なども興味深いのですが、本書の読みどころはやはり大人になったマリが、かつての親友たちと再会すべく所在を調べる過程だと思います。
プラハの春、十日間戦争、ユーゴスラビア紛争…次々に東・中欧を襲ったイデオロギーと血なまぐさい激動の波の中、同級生たちは皆バラバラになり、満足に文通や電話もできない状況でわずかな手がかりを元に親友たちの居場所を突き止め、再会し、少女時代には知り得なかった友人たちの抱える複雑な事情を知る場面は胸にこみ上げてくるものがあります。
これは米原さんのような体験をしていなければ絶対に書けない、ドラマチックなノンフィクションだと思います。
私のように戦後の日本で生まれ育ち、日本の教育を受けた人間は、同じ教室で共に学んだ級友が戦禍に巻き込まれたり国運に翻弄されたりして行方不明になるという経験をするなど、想像もつかないことなのですから。
特に書名にもなっている「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」の「アーニャ」との話が最も心に響きました。
ルーマニアの特権階級に生まれ育ち、祖国ルーマニアがどんなに素晴らしい国かを力説するクラス一の愛国者、アーニャ。
けれども紆余曲折の末ようやく再会できたアーニャは、特権階級の恵まれた立場を享受しながら、貧しく不幸な祖国ルーマニアを捨て、イギリスでイギリス人と結婚していました。
自分の中にルーマニア人の部分はもうほとんど残っていないというアーニャに対し、複雑な気持ちを抑えきれないマリはこう訴えます。

だいたい抽象的な人類の一員なんて、この世にひとりも存在しないのよ。誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気象条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡みついている。それから完全に自由になることは不可能よ。そんな人、紙っぺらみたいにペラペラで面白くもない


188ページ 3〜8行目

この言葉を言われたアーニャもつらかっただろうし、この言葉を言わずにはいられなかったマリもどんなに苦しかったことかと思います。
大好きな親友が、激動の歴史の中ですっかり生き方を変えてしまうなんて…。
でも、私のような日本生まれ日本育ちの人間も、旧友にこんな複雑な感情を抱かなくてはならないことはないにしろ、アジアの一員として中国や韓国など近隣の国々との民族的対立と無縁でいられるわけではないのですよね。
それは地球上どこにいてもそうなのでしょうけど…。
そのことだけは、忘れないようにしたいなと思いました。


ユーゴスラビア人のヤスミンカの居場所を調べる過程は、米澤穂信さんの『さよなら妖精』と似たところがあり、ミステリのようで面白かったです。
私はソ連や東・中欧の歴史や文化についてあまり知識がないのですが、これを機会に少し勉強してみたいと思いました。
新年早々よい刺激をもらえた1冊でした。
☆5つ。